抜き打ちテストのパラドクス

いや、特別な意味はないのですが…
しきりと「解散の時期は私が決める」と言いながら、はや9ヶ月?
もはや情勢としては、総裁選前倒しの気配が濃厚に漂っておりますが…
自民党の党内政局の力学ではもはや解散を打てそうにもない小心者(チ○ン野郎)麻生太郎氏を見てふと思ったこと。
何の文脈もないが取り敢えず述べてみよう。


「来週抜き打ちテストをやるぞ〜」
先生のこの一言にビビリまくる生徒達。
そこで立ち上がったのが、神童の誉れ高い学級委員の裕二君だ(裕二に深い意味はない)。
「心配することはないよ、君達。先生は抜き打ちテストをやることはできないのさ。それを今から証明して見せよう」
と自信満々に裕二君は論をぶち始めた。


裕二(以下祐)「いいかい、みんな。よーく聞け。木曜日まで抜き打ちテストがないとするよな。」
生徒達(以下生)「ふんふん」
祐「とするとだ…」
生徒A(以下A)「あっ、オラわかった」
祐「最後まで聞け!」
A(ショボン)
祐「金曜日にテストがあることがわかるから、これじゃ抜き打ちテストにはならないな」
生「ほー、なるほど」「賢いなお前」
A(ち、それくらいオレだってわかったっつーの)
祐「じゃあ、水曜日までテストがなければどうなるかわかるか?」
生徒B(以下B)「んーと…、金曜日には抜き打ちできないから、木曜にやるしかないな」
生徒C(以下C)「おいおい、それじゃ抜き打ちになんねーべ?」
B「そっか、それじゃ水曜日までには抜き打ちしなきゃな」
祐「そうそう、君らわかってるじゃないか」
A(ち、エラそうに…)
生徒D(以下D)「あれ?でも、火曜日までにテストがなければ水曜日にやるしかないんじゃね?」
B「金曜日にも木曜日にもできないんじゃな」
C「それも抜き打ちにはなんねーな」
B「つーことは火曜日までか…」
D「でもって月曜日にテストをしないとすると…」
C「火曜日になるしかなくなって、それじゃ抜き打ちにならないと」
D「ってことは消去法で月曜日か」
C「おい、それも抜き打ちじゃねーよ」
祐「ということで、わかったかい、A?」
A(ムキー)


こうして、抜き打ちテストが実行できないことが無事証明されました(?)

いやね、麻生氏の「解散やるやる詐欺」を見てなんとなく似てるなぁと思ったしだいで。

ところでこれって厳密なパラドクスと言えるんでしたっけ?

本の紹介 政権交代へ向けて

随分久々の更新になってしまった…
FC2のブログに書いたエントリーをこちらのみアップしよう。


えー、政治の季節ということで、政局話が大いに盛り上がっているようですが…
あ、僕は政局はあまり好きではないです(たまにはその手の話もとりあげますが)。


政権交代を間近に控えて(もう一波乱、二波乱あるかもしれませんが)、いざ政権交代したらどのような社会を私たちは作り上げていくのか(あるいはどう構想すればよいのか)。
そこを一冊の本を手がかりに探って行きたい。


その前に一つの前提を置く。
仮に政権交代が実現したとして、まずその新政権は連立政権になるだろう(現在参議院過半数を有する政党はない)。
そして、新政権の中心が民主党になることはほぼ間違いないだろう。
したがって、新政権の政策の中心は、新政権の中心である民主党の政策に大いに影響を受けるだろう。
以上が前提である。


さて、本日の一冊であるが、ビデオニュースを主催するビデオジャーナリストの神保哲生氏が記した『民主党が約束する99の政策で日本がどう変わるか?』だ。
ただし、僕自身、現時点では前書きを読んだ程度である。
神保氏によれば、本書は、民主党マニフェストとは全く別物らしい。
以下、神保氏の言葉を借りて、本書の説明としたい。
やや長いが前書きより引用する(強調は引用者)。


本書の目的は単純明快だ。
日本で政権交代が実現し、民主党という新しい政治勢力が政権の座についたとき、この国やそこに住む私たちの生活がどう変わるかを、民主党の政策を通じてあらかじめ明らかにしておこうというものだ。
民主党は選挙のたびにマニフェストと呼ばれる選挙公約を公表している。だがそれは、選挙のために作成した、言ってみれば広報資料のようなものだ。それだけでは民主党政権下の日本がどうなるかは判然としない。
本書は、マニフェストや党が作成した政策資料に加え、これまで民主党が提出してきた議員立法の法案や主要議員の発言、国会答弁や国会質問、そして党幹部へのインタビューを通じて、より立体的に民主党の政策を明らかにしていこうというものだ。そこには、民主党が広報資料では触れていない、できればあまり見せたくないと考えているかもしれない部分も、当然含まれる。


以上のように、本書の目的はいたって単純なのだが、実はそこには二つの大きな目論見がある。


まず一つ目は、民主党が政権をとったときに日本がどうなるのかをある程度事前に知ることで、有権者の方々に、選挙で民主党を支持すべきかどうか判断する材料として使ってもらいたいという目論見だ。民主党政権下の日本が具体的にイメージできれば、民主党への支持・不支持を決める一助になるだろう。


(中略)


さて、本書にはもう一つ重要な目論見がある。この二つ目の目論みは、民主党がいざ政権をとったときに本領を発揮する。
それは本書が、民主党が総選挙に勝利し政権の座につくまでに、どのような政策を主張して国民の支持を取り付けたかのリマインダー(覚え書き)となることだ。


本書にかかれた政策は、これまで民主党が主張してきた政策に他ならない。もし政権の座についた場合、民主党にはそれを実行する責任があるし、有権者もその実現を迫る責任をおっている。
主張してきた政策や公約を明らかにしておくことで、政権獲得後の民主党にその実現を迫るためのツールとして、本書をぜひ使っていただきたいというのが、本書のもう一つの、そして、おそらくはより重要な目論見である。


その意味で本書は、一見、民主党の応援本のように見えるかもしれないが、実は民主党にとって厄介な存在になるだろう。何しろ本書には、民主党が選挙前には争点にしたくないため、マニフェストからはずされた政策もたんまりと含まれているし、いざ民主党が政権をとろうものなら本の中身が地獄のそこまでついて回るはずだからだ。
民主党がこれまで主張してきた政策をこうして記録に残しておけば、われわれ有権者民主党政権にその政策の実行を迫る際の強力な証拠になる。本書を、民主党がこれまで市民社会と交わしてきた数々の約束をまとめた『市民社会民主党の契約書』だと考えていただきたいと思う。

どうだろうか?
政権交代後の日本社会を構想したい人たちは、ぜひこの書を手に取って、民主党に政策の実現を迫っていただきたい。


え?民主党の回し者?
そう思う方は本書を手に取らんでよろしい(地獄まで自公に付き合えばよい)。
え?ビデオニュースの回し者?
まあ、神保哲生氏のファンであることは否定しない。


今後のエントリーで、本書で取り上げられている政策を少しずつアップして論じていきたい(営業妨害にならない程度に)。

観察の理論負荷性について

えー、ここのところ科学哲学チックな話題が続いていました(まぁ、僕の好きな話題ですので)。
で、とあるブログをチラ見して、科学哲学に関して「オイオイオイ、そんなことなのかよ!?」と思わずツッコミたくなるエントリーに遭遇したので少し述べてみたい(そのブログエントリーについては後ほど言及)。


再び論理実証主義についてですが…
取り敢えず、おさらい。
論理実証主義は、「(事実と対応する)真理としての科学」なる科学観に立っている、という旨をこれまで書いてきました(そして、この科学観はそれほど奇異ではない旨も)。
そして、科学的言明の真理性、すなわち科学が事実と対応している、ということを証明しようと試みました(が、結局は壮大な失敗に終わった)。
「科学と事実の対応」が不発に終わったからといって、「科学と事実(自然)の近似」に退却すればいいと考えるとしたら、思考停止にも程があると僕は思うが…まぁ、それはよいでしょう。
さらに言えば、論理実証主義は真なる言明の集合としての科学(理論)だけを(意味ある言明として)残し、それ以外の言明を(無意味として)放逐しようとしました(その意味では、科学主義の権化と言えましょう)。
それは疑似科学優生学マルクス主義など)や形而上学を偽なる言明として放逐しようとする、憎悪(ないし敵意)とも呼べる感情と一体でありました(その辺りは現在の疑似科学バッシングとも相通ずるような…)。


まぁ、論理実証主義誕生の背景についてはこれくらいにして。


論理実証主義は、科学の真理性を担保するために、科学と事実の接点を想定せざるを得ません(科学が事実といかなる接点も持ちえないのであれば、科学と事実の対応など望むべくもないからであります)。
そして、重要なことは、もし科学が事実との接点を有するのであれば、その接点には科学が関与してはならないということだ(論理実証主義的な立場からすれば)。
言い換えれば、科学と事実の対応を云々するためには、科学とは独立した事実との接点が必要になる。
というのも、事実との接点それ自体が科学と関係するならば(科学的に求められるならば)、科学と事実の対応が科学的に基礎づけられるという事態に陥ってしまうからだ(それは循環論法に他ならない)。
言い方を換えてみますと…
科学と事実の対応が、すなわち科学の真理性が、他ならぬ科学によって担保されるとしたら、その担保には一体どれほどの価値があるだろうか?
それは、「科学は正しいのだ、なぜなら科学が『科学は正しい』と言っているからだ」、と言うに等しいのだ。
つまり、科学を基礎付けようとするなら(カントはまさにそれを試みた)、科学によるわけにはいかないのだ。
ちなみに、ローティは基礎付けそのものを放棄しようという立場ですね(僕も同じ立場です)。


ちょっと回り道をしました。
では、論理実証主義は、(科学とは独立した)科学と事実との接点をいかにして確保しようとしたのでしょうか?
結論から言いますと、観察文ですね。
もっと言えば、感覚与件とかセンスデータになりますが…
感覚与件あるいはセンスデータとは、(理論を通さず)人々に直に与えられる経験的事実とでも言えましょうか。
例えば、リンゴを見た時に、それがリンゴかどうかは間違い得るが、赤くて丸いもの(を見た)という感覚は絶対のものだ、ということですね(今風に言えば、クオリアの絶対性とでも言えるでしょうか)。
このような感覚与件あるいはセンスデータによって構成される文を観察文と呼びましょう。


論理実証主義のプログラムを単純化して言えば次のようになります。
すなわち、科学という高度に抽象的な理論体系も、観察文という(科学と独立の)経験的事実に還元できるならばそれは真なる言明(すなわち事実と対応する)であり、それは実際に還元できる、として科学理論の観察文への還元へと猪突猛進することになります(ここに還元主義が現れているわけです)。
論理実証主義が論理的経験論とも呼ばれる所以であります。


ふー。随分長い前置きになりました。
見てきた通り、論理実証主義のプログラムが正しいためには、理論によらない観察文の存在が不可欠になります。
そして、「観察の理論負荷性」とは、そのような観察文の存在を否定する(つまり、どのような単純な観察文も何らかの理論を前提にしている)というテーゼであります。
それは、明確に論理実証主義のプログラムを否定するものです。
ただし、僕は現時点では、「観察の理論負荷性」ではなく「観察の言語(ないし概念)依存性」くらいが妥当だと思っています。
そして、言語の全体論的性質を鑑みれば、やはり論理実証主義のプログラムは放棄せざるを得ない、という立場であります。


さて、問題のエントリーですが、ズバリ池田信夫氏の朝日新聞の「財界悪玉論」だ。
最後の方に観察の理論負荷性について述べられているので一部引用する。

自省をこめていうと、報道の現場にいると事実をもれなくフォローしなければならないというプレッシャーが強い一方、理論は専門家のコメントにまかせればいいので自前で勉強しない。しかしすべての事実は理論負荷的なので、特に環境のような経済問題について、経済学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ

事実の理論負荷性となっているが、事実の記述(すなわち観察)の理論負荷性と読み替えて構わないだろう。
池田氏は、事実が理論負荷的であるから、理論は正しいと言いたいようだが、残念ながら氏は「観察の理論負荷性」を全く理解していないと言わざるを得ない。
上で見てきた通り、「観察の理論負荷性」は、どんなに単純な観察文であっても何らかの理論に依拠している、ということを指摘するだけであって、その観察文が依拠する理論の正しさについては全く言及しない。
例えば、木をのこぎりで切るのを見て「木が(痛がって)泣いている」という観察文を発する人がいるとしよう。
これはアニミズム的な世界観に依拠している(アニミズム理論負荷的と言える)だろうが、だからと言ってアニミズムが正しいとは全くならない。


つまり、経済的な事象を述べることは、理論負荷的(経済理論負荷的?)とは言えるが、そのこと自体は経済学の正しさを全く担保しないわけだ。
つまり、経済学に依拠せよ、と言いたいのならば経済学者が経済学の正しさを示す以外にない(「観察の理論負荷性」などを持ち出したところで、経済学に依拠する理由には全くならない)。


氏の言葉をもじって言えば、「観察の理論負荷性」のような科学哲学的な問題について、科学哲学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ、ということになるだろう。
ひょっとして、「『観察の理論負荷性』という科学哲学チックな言葉を持ち出せば、説得力が増すだろう」とでも考えたのだろうか?(だとしたら、浅はかにもほどがあるが…)

それによって恥をかくのは小林氏や石井氏ではなく、朝日新聞である。

池田氏が恥をかいていないことを祈るばかりである。


池田氏の哲学レベルについては、コチラでも言及しました。よかったらご参考に。

還元主義と全体論 ミラーニューロンから考えてみる

久々の更新になってしまった…
どうも今一つ更新する気になれなかったわけですが(FC2の方はボチボチ更新していたわけですが)
ぶっちゃけて言えば、ネタ切れ、ですね(ぶっちゃけ過ぎか?)。
ブログ徘徊中に見つけた次のエントリーについて少し言及してみましょうか。
小飼弾氏のブログから、共感のファームウェア - 書評 - ミラーニューロンの発見についてだ。
ここしばらくやたら哲学チックな話が続き、その流れを突如断ち切るのもアレなんで、そんな観点から…


さて、僕もミラーニューロンの話については、かる〜く読んだことがある程度ですが…
一応Wikipediaミラーニューロンにリンクを張っておきましょうか。
ここでミラーニューロンを取り上げるのは、還元主義的思考と全体論的思考の対比についての、よい例示になると考えるからである。


「脳は、互いにシナプスで結合した脳細胞の集まりが、全体として機能する(その結果人間の様々な認知機能・行動を体現する)」ということは、多分人間の認知を研究する人々の大部分が認める前提だろう。
もちろんこのことは、脳の特定の領域が認知機能の特定の領域(例えば言語、情動、意思決定)を担う(脳の機能分化)ことを否定するものではない(その特定領域すら多数の脳神経細胞の集合として機能するのは変わらない)。
もう一点付け加えると、機能分化した脳にもある程度の可塑性はあるらしい(脳卒中からのリハビリによる回復は、脳の可塑性を説明するだろう)。
脳が全体として機能している、という仮説は、脳細胞が一日数万の単位で死んでいる、という事実とも整合的である(特定の神経細胞が決定的に重要な機能を有しているなら、その細胞が死んだ途端に深刻な障害が現れるだろう)。


つまり、脳という存在(実在)は、個々の脳神経が互いに結び付き一つの神経集団を形成することで、一つの機能を有する。
それがさらに集まって脳という存在となり、それが全体として人間の行動を組織する機能する。
脳の各部分にはある程度特化した機能があるが、しかしそこに固定されているのではなく、ある程度の可塑性を有する。
このような考え方を、ここでは「脳機能の全体論」と呼ぶことにする。


さて、ここでちょっと話題を変えて、言語について考えてみたい。
論理実証主義の言語観は次のようなものであった。
単語は世界の要素と1対1に対応している。
さらには、単語の結びつきとしての文は、要素の結びつきとしての事態と対応する(事態と対応した文が真なる文とされる)。
従って、真なる言明の総和は世界と対応している(真なる言明の代表が科学的言明である)。
このことはまた逆に世界で起こっている事態は、各要素へと分解(還元)できる、という信念とも一体である。
つまり、論理実証主義的言語観の一つの核に還元主義がある(クワインが二つのドグマの一つとして批判したのが還元主義であった)。


それに対して全体論ホーリズム)とは、単語の意味は一つの言語システムの中で(他の諸単語との意味の対比において)特定される、と表現されるだろう。
要するに、単語の意味は、事物との対応ではなく、言語システムにおける位置づけにおいて特定されると言うことだ(このことは、私たちが言語を経験的に習得するということと矛盾するものではない)。
この辺りはソシュールの「言語は差異の体系である」というテーゼとも親和的だろう。
文章の意味も、そのように特定される単語の意味の総体(と統語規則)によるだけでなく、その文が置かれる文脈に依存する(こちらのエントリーで述べたように、その依存の程度には濃淡があるだろうが)。


ではここでミラーニューロンについて考えてみよう。
ただし、僕が『ミラーニューロンの発見』を読んでいないことは強調しておかなければならないだろう(読むとエントリーを書き換えることになるかも知れません)。
上記の小飼弾氏のエントリーから一部引用

そう。共感。我々がどう共感しているのか、いやそもそもなぜ共感できるかという問題の糸口が、ここ(ミラーニューロン:引用者注)にある。

それではミラーニューロンとは何か。一言でいうと共感の神経細胞である。

なぜ我々が社会を構成できるのか。なぜ我々が本を読めるのか。なぜ私が痛いとあなたも痛くなるのか。共感という情動なしには、それは不可能であり、そしてミラーニューロンがあるおかげで、我々は「考えなく」ても「共に」「感じる」ことが出来る。


この引用部分を読んで、僕が何を言いたいか、わかる人もいるかもしれませんね。
僕が言いたいのは、この引用部分において、共感という人間(に恐らくは特有)の認知機能がミラーニューロンという特定の神経細胞に還元されている、ということだ(さらには社会そのものが共感という能力に、したがってミラーニューロンの存在に還元されている)。
ここには先に述べた還元主義という思想的立場が象徴的に表れている(還元主義というと言い過ぎのような気もするが…基礎付け主義?)。
もちろん、それを「還元主義だから間違いだ」と断ずることはできない。
もし批判するのであれば、反証例を実証的に積み上げて批判していくしかない(それが批判的合理主義の立場である)。
もっとも、僕にはその科学的な方法を利用することはできないのだが(従って、ここでは還元主義的思考が現れている、という事実を指摘するのみにとどめるしかない)。


そして僕には、昨今の脳科学ブーム自体にもある種の還元主義的ドグマが現れているようにも思われるのだが…
複雑な社会現象も脳内過程に還元できる、みたいな(僕の誤解かなぁ?)。
養老孟司氏の『唯脳論』がその走りでしょうか。
ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』はその点、科学者らしく(養老氏が科学者でない、と言いたいわけでもないのだが)あくまでも科学的に分かった事象のみに焦点を当てている印象だ(あくまでも個人的な印象)。


しかし、先の「脳機能の全体論」という立場に立脚するなら、共感という機能のミラーニューロンという特定の神経細胞への還元には疑問符がつけられるかもしれないし、また社会現象の脳内過程への還元にも同様に疑問符がつけられるだろう(ゲーム脳批判もブーム(?)のようだが、ゲーム脳的な考えもある種の還元主義に陥っているかもしれない)。


共感については後でもう少し述べたい。

素人のための科学哲学・言語哲学に関する参考図書

僕自身、ド素人ですので、あくまでも素人向けの図書案内ということですが。
もし、科学哲学的なところを、多少なりともマジに考えようとするのであれば、やはり論理実証主義的な「(自然と対応する)真理としての科学」的な科学観から、クワイン流のプラグマティック(=ホーリスティック)な科学観への転回は最低限抑えておかなければならないのではないでしょうか?
ところが、残念なことに(?)このツボを抑えた図書が実際にはなきに等しいように思われます(僕の知る限り、ということですが)。


という訳で(?)、本職は倫理学なのですが、分析哲学に造詣の深い大庭健氏が記した『はじめての分析哲学』を、上記の転回を概観した図書として一押ししておきます。
素人(というよりは半玄人)の強みを生かして大雑把に問題点を掴み出す、風の図書ですが(本職はどうしても論の細かいところを詰めずにはいられないだろうから、このような大掴み的な本は書きづらいのでしょう)。


ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(僕は少し読んだだけ)を理論的支柱として、科学の真理性を担保しようと猪突猛進した論理実証主義
それがやがて内部から崩壊を起こし、クワインの「経験論の二つのドグマ」(『論理的観点から』所収、えーっと未読です)によって完全に息の根を止められたと。
本来ならカルナップ辺りにも触れるべきかもしれませんが、その辺はマニア向けってことで(僕自身未読ですし)。


冨田恭彦氏は、『科学哲学者 柏木達彦シリーズ』を書かれています。
小説タッチの科学哲学入門書的な位置づけで、「論理的な厳密さ」よりも「科学哲学への親しみやすさ」に比重が置かれており、そのせいか(?)マニアにはやや物足りないかも知れません。
同じ冨田氏の書かれた、『クワインと現代アメリカ哲学』(レビューなし)『アメリカ言語哲学の視点』(レビューなし)はよりマニア向けと言えるかも知れません


さて、プラグマティックな転回を遂げた言語哲学の一つの形がクワイン『ことばと対象』でありましょう。
分析哲学(ある種の言語哲学)が論理実証主義から発生したように、科学哲学と分析哲学言語哲学)にはある種の親和性がある。
科学は「もの」を対象にし、科学哲学は「もの」を対象にする営為(=科学)を対象にし、分析哲学は「もの」と「ことば」の関係を分析するものであるから。
ということで、クワイン流のホーリズムへと展開した言語哲学に関しては、クリストファーフックウェイ『クワイン』、丹治信春氏『言語と認識のダイナミズム』辺りを参照いただくのがよいでしょう。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』(少し読んだだけ)は自身の『論理哲学論考』(既出)を否定するような形で展開されています。


科学哲学というよりは言語哲学の図書案内になってしまったようですが…(まぁ、僕の関心は圧倒的に後者なので)
戸田山和久『科学哲学の冒険』『知識の哲学』、伊藤 笏康氏『人間に何が分かるか―知識の哲学』辺りが参考になるかなぁ?(あんまり覚えてないですが)
野家啓一氏あたりも参考文献に挙げるべきなんでしょうけど…(キリがなさそう)


そうそう、ポパーを忘れてた。
ポパーの批判的合理主義は、プラグマティズムと相反するわけではないですが、科学哲学の重要な一分派を形成している(し、個人的にも、批判的合理主義的な科学観は必要不可欠だと思っている)。
ポパー本人の著書ではないですが、『批判的合理主義の思想』を挙げておこう。
ポパーは決して「これこそが真理だ」という言い方を認めませんが、真理概念は手放さなかったようです(ポパー流の真理は、絶えざる批判の果てにうっすら浮かび上がる、風にイメージされますが)。
その点が僕とは対立するかも知れません。


最後にデイヴィドソンに触れるのは、やや躊躇いもありますが…(どれほど自分が理解できているのか、全く自信がありませんので)
森本浩一氏『デイヴィドソン』デイヴィドソン『真理と解釈』辺りを挙げるくらいなら許されるかな?


あくまでも素人による文献案内でした。
関心のある方は、それなりの人のサイトなり文献を参考にすることをお勧めします。

「近似」と「対応(としての真)」の親和性(ないし連続的移行可能性)について

「テクストの文脈依存性」と「文脈のテクスト依存性」についてコメントを頂いた。
コメントは引用しませんので、各自でご確認ください。


当初のエントリー(科学について(あるいは真理について)「近似」と「モデル化」について)と内容的には重複することになると思いますが、「科学は自然の近似である」がいかなる前提に基づいているか、科学哲学的により突っ込んで(ということはツッコミどころもその分増えるということですが)書いてみようと思う。
まぁ、なかなかに骨の折れる作業であることは承知していますので、どこまでできるかは保証の限りではありませんが。


さて、「科学は自然の近似である」という場合の前提とは、一つは、「自然は実在する」という信念であります。
これは多分ほとんど全ての科学者が前提とする自然観・世界観でありましょう(というか、この信念抜きに科学という営みは不可能といってもよいかも知れません)。
次に、「自然は実在する」の一バリエーションとして、「実在は(気まぐれによって)コロコロ姿を変えたりしない」というのも考えられる。
というのも、(気まぐれで?)コロコロ姿を変えるものがあるとして、そのようなものの実在を云々することは想像もできないからだ(今日は蛙、明日は犬、明後日はノートパソコンに姿を変えるものがあったとして、それを何らかの実在と想定することは私たちには困難であろう)。
これは次のように言い換えられる、すなわち「実在は何らかの規則、通常は因果律に従った振る舞いをする」という信念である。
(実在する)犬が、タンパク質が、機関車が何らかの変化をする時、通常そこには何らかの因果的な影響が及ぼされた、と考えるわけだ。



そして、「何らかの規則(通常は因果律)に従った実在(の総体)」として「自然」を考えることにしよう。
これが「自然は実在する」という表現の意味である。
そして、「何らかの規則に従った実在(の総体)としての自然」を科学が言い当てられた場合、「科学は自然と対応している」と表現されるだろう。
もちろん、この前提として、「特定の言明が実在(のありよう)を言い当てる」ということの有意味性が担保されなくてはならない(のだがそれは措く)。
こうして、「科学は自然と対応している」が仮に有意味である場合、その前提には「自然は実在している」という実在論的信念があることが示せたと思う(実在論的信念を前提にして初めて「科学は自然と対応している」という表現が有意味となる)。
そして、「言明(例えば科学)が対象(例えば自然)と対応している」ということが有意味であるとしたら、それを真(理)と呼ぶことはそれほど奇異ではないだろう(というより、それを真と呼ばないとしたら何を真と呼ぶだろう?)。


取り敢えず、ここまでのまとめ。
「科学は自然に対応する(がゆえに真である)」という科学観(自然と対応する真理としての科学)の有する前提をまとめます。
「自然は実在する」「実在は何らかの規則(通常は因果律)に従った振る舞いをする」「実在(のありよう)を記述することができ、真なる記述は実在と対応している(あるいは実在と対応する記述を真なる記述と呼ぶ)」「真なる記述の総体として、(自然と対応する)真理としての科学という科学観が有意味となる」


では、次に「科学は自然に対応する」と「科学は自然の近似である」の親和性(もしくは連続的移行可能性)について


ここでは、「近似する(≒近づく)」の概念分析を試みてみたい。
「近似する(≒近づく)」は第一義的には空間的な概念であり、二義的には時間的な概念である(三義以降はこのいずれかのメタファーになるだろう)。
いずれにせよ、ある目標(点)が存在し、その目標(点)に空間的または時間的に接近することを「近似する(近づく)」と表現してよいだろう(繰り返しになるが、それ以外の「近似する(近づく)」は多分このメタファーで表わされる)。
ただし、この場合目標(点)は厳密に知られている(ないし知られ得る)という前提はなくてもよい。
「近似する」が意味を持たないのは、目標(点)が有限の範囲にあるということが想定されない場合である。
平たく言えば、「目標がどこにあるかもわからないのに、近似もヘッタクレもあるか」ということになります(的のないダーツで、どっちが勝者かを考えてみるべし)。
目標が有限の範囲にあるならば、二つのものの近似を比較可能である(Cが特定の範囲内にあることが前提にあってはじめて「Aに比してBの方がCにより近似している」という表現は有意味になる)。
例えば、「3よりは3.14の方がπにより近似している」や「1.4よりは1.414の方が√2により近似している」が有意味であるのと同様に。
ただし、二つの近似は常に比較可能であるとは限らない(どちらか一方がより近似していると言えない場合もある)。


これを「科学は自然の近似である」に敷衍して言うと。
このテーゼを前提にするならば、「科学理論Aよりも科学理論Bの方が自然により近似している」という表現が有意味でなければならない(二つの理論との距離関係を云々できないとするなら、近似という表現そのものが意味を失ってしまう)。
そして、科学が一般に年次を追うごとに進歩(ないし進化)している(と思われているだろう)ことに鑑みれば、「科学は自然の近似である」という科学観にコミットしているおそらく全ての人は、「16世紀の科学より17世紀の科学の方が(17世紀の科学より18世紀の科学の方が、18世紀の科学より19世紀の科学の方が…)より自然に近似している」ということに同意するだろう。
もし異論のある方は是非申し出て頂いて、「二つの時代の科学の自然への近接性(近似性)について云々できないにもかかわらず、『科学は自然の近似である』が一体いかにして有意味性を保つことができるか」、説明して頂きたいと思う。



また、「より近似していく」ということが有意味だとすれば、それは「誤差がより小さくなっていく」ということに他ならない(何の誤差かと言えば、自然と科学の誤差に他ならない)。
つまり、「科学理論Aの方が科学理論Bよりも、より自然に近似している」ということは、「自然と科学理論Aの誤差の方が、自然と科学理論Bの誤差よりも小さい」ということに他ならない。
そして、一般に誤差は(少なくとも理念的には)より小さくしていける(原理的に埋めることのできない誤差でなければ)。
つまり、「自然と科学理論A´の誤差」が「自然と科学理論Aの誤差」よりも小さくなるように、さらに「自然と科学理論A´´の誤差」が「自然と科学理論A´の誤差」よりも小さくなるように…、と自然科学をより進化させていくことが(少なくとも理念上は)可能でなければならない(繰り返すが、あくまで「科学は自然の近似である」が有意味ならば)。
こうして、誤差を徐々に小さくしていくにつれ、科学は自然により近似し、誤差が無視できるほど小さくなれば「科学と自然の近似」は「科学と自然の対応」へと移行し得る。
つまり、「科学は自然の近似である」という科学観は、「科学は自然と対応する」すなわち「(自然と対応する)真理としての科学」という科学観と親和的(より正確には連続的に移行可能)であることが示されたと思う(多分)。


これが、はじめに書いたエントリーのより詳細な意味合いである(はじめからここまで書いた方がよかったのかな?)。


繰り返しになりますが、「自然は実在する」という自然観・世界観は決して奇異なものではない。
というより、(少なくとも)科学者にとってはあまりにも自明で、それゆえ改めて述べるのも躊躇われるほどであろう(むしろ、このような自然観・世界観を持たない科学者がいたらそっちの方が奇異だろう)。
この自然観・世界観抜きには科学という営みが成立しない、と言ってもいいほどである。


しかし、一応念のために述べておくと。
科学という営みが実在論的な前提抜きには成り立ち難いからと言って、全ての人が実在論的な前提に立たなければ(従って「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観を有さなければ)ならないわけではない(科学教育においては実在論的な前提に立たざるを得ないだろうが)。


さて、ここからは本筋とは直接は関係ないのですが。
「科学は自然の近似である」的な(したがって僕流に言えば「真理の対応説」に則った)科学観に基づかない科学論の一つに、クーンのパラダイム論が挙げられるだろう。
一応、念のために断っておきますと、現在の僕はパラダイム論には与しない。
ここで敢えてパラダイム論を取り上げるのは、「真理の対応説」に則らない科学論の象徴だと思えるからだ(しかも人口に膾炙している)。
まぁ、パラダイム論ではなくても、いわゆる概念枠相対主義的な科学観である。


まず、クーンのパラダイム論、科学革命論について簡単に述べますと。
特定のパラダイム(科学の大枠を決定する指針、くらいかな?)に則った科学的営為(通常科学)がある。
科学的探究が進むにつれ、(パラダイム内で)科学理論は徐々に修正を受けるが、やがて通常の修正では対応しきれなくなる事態に直面する。
その時にパラダイムの変更を余儀なくされ、全く別の科学理論が形成される(科学革命)。
ま、大雑把過ぎて我ながら恥ずかしいですが。


さて、ここでパラダイムAに則った科学理論をα、パラダイムBに則った科学理論をβとすると。
問題は、αとβの関係である。
クーン流のパラダイム論に依拠すれば、αとβの優劣、より具体的にはαとβのどちらがより自然に近似しているのかを論じることはできない。
というのも、パラダイムとは世界という実在を映し出す鏡(ないしフィルター)というメタファーではないからだ(むしろパラダイムごとに世界が存在するという観念論的な概念である)。
つまり、「世界という実在が存在し、パラダイムごとに異なる相貌を見せる」、という意味合いではなく、「世界そのものがパラダイムごとに異なる」、という意味合いを有している(パラダイムの違いは端的に世界の違いを表す、ということだ)。
パラダイムの違い=世界の違い」、を象徴するタームが「共約(ないし通約)不可能性」である。
これは、例えば同じ「電子」という言葉を用いても、パラダイムが違えばもはや対象も異なる(それゆえ共約不可能である)、という意味合いで用いられる。
その意味で、パラダイム実在論的概念というよりは、きわめて観念色の強い概念と言ってよいだろう。


そして、パラダイム論的な科学観からすれば、(特定のパラダイムに依拠する)科学理論の優劣を論じること(従って自然との近似を云々すること)はナンセンスとなってしまう。
というのも、それは世界そのものの優劣(や近似)を云々することと等しいのだから。
もっとも、確か後年クーンは共約不可能性という概念を放棄したと記憶しているが…
まぁ、それはそれとして。
クーン流のパラダイム論は、少なくとも実在論的な科学観ではない。
それゆえ、パラダイム論に依拠するなら、「自然は科学の近似である」はそもそも意味を有さない。



ま、パラダイム論は幾分余談的でしたが、取り敢えずは「自然は科学の近似である」が実在論を前提とし、真理の対応説とそれゆえ「(自然と対応する)真理としての科学」という科学観と親和的である(より正確には連続的に移行可能である)ことが示されたと思う。


えっ?
実在論に依拠するでもなく、パラダイム論にも拠らず、quine10、お前はどんな科学観を有しているのだ?」ですか?
それはおいおい。

整合性と対応について(あるいは真理について)

トラックバックを頂いた。
「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ
古臭い論の展開をしていると。
まぁ、それを否定はしません。
僕は所詮は素人の戯言を述べているに過ぎませんし、である以上は最先端的な話など端っから望むべくもないからであります(最先端の話をしたいのであれば、口をつぐむ以外にはない)。
まぁ、Hatenaにはプロ(やその予備軍)も多いだろうから、素人の不適切な言説に対しては、適切なツッコミが入るのではないだろうか?
とまぁ、自分の都合の良いように思い込んでおこう。


で、本題の整合性と対応についてですが(科学について(あるいは真理について)を参照)。
一応念のために述べておくと、僕は「対応には意味がない」とか「対応という概念が間違っている」とか「対応など幻想である」とか言いたいわけではありません(実際、そのようには述べていないと思います)。
そうではなく、特定の言説を「物事との対応」という観点から正当化しようとする言説(しばしば自らを真理と称する)を批判しようとしているわけです。
対応はある意味原初的な概念であり、それゆえ(特に自然)科学においては多くの場合対応概念は素朴に前提されている(だろう)し、まぁそれで深刻な事態に陥るわけでもない(それゆえ対応への信憑がますます深まる、という側面もあるだろう)。


論理実証主義は、対応概念を素朴に前提するどころか、それをグロテスクなまでに肥大化させ、それによって科学を正当化しようとした(が、結局は壮大な失敗に終わった)。
私見によれば、それによって対応概念は真理からプラグマティックな方向へとシフトせざるを得なくなった(そしてこのシフトは決定的で、かつ不可逆なものだと思っている)。
対応概念がプラグマティックな方向へとシフトする、ということは対応概念が原初的なものではなく、結果として現れるものだ、と取り敢えずは言っておこう。
論理実証主義の登場がなければ、ひょっとすると対応への信憑はいまだに根強いものだったのかもしれない(まぁ、それでも科学哲学の文脈を離れれば、対応は素朴に前提されているようには思われるが)。


では、現時点での僕が、整合性と対応の関係をどのように考えているか、ですが…
僕はデイヴィドソン流の「整合性ゆえの対応(整合性が対応を生む)」を支持したい。
というか、クワイン流のホーリズムを維持しつつ対応を論じるとしたらこれしかないような気がする。
例えば、「1+1=2」、「雪は白い」、「地球は太陽の周りを回っている」、は実際にそのような事実と対応しているがゆえに真である、と言いたくなる(し、それが間違ってるとも言えない)。
しかし、それが対応していると言えるのは、「1+1=2」という式が私たちが実際に生活をするうえで深刻な矛盾に出会わない(一貫ないし整合している)からであるし、「雪」や「白い」という言葉を使う文脈と「雪が白い」という文が深刻な不整合に出会わない(一貫ないし整合している)からであるし、「地球が太陽の周りを回っている」という文章を採用した方が、天文の観察や物理理論とうまく整合するからであります(科学理論の場合は理論のシンプルさ、という面もあると思われる)。


とは言え、(特に自然)科学は実在論ないし唯物論的な前提なくしては研究自体が成り立たないところもあります(実在論唯物論を並列に述べるのは哲学的にはうんちゃらかんちゃら、という議論は脇に置きます)。
したがって、どこかのエントリーで述べましたが、大部分の科学者(科学哲学的な問題意識を有していない科学者)が真理の対応説を、したがって「真理としての科学」なる科学観を持つのもやむを得ないと思いますし、別にそれを修正しなければならない、とも思いません(なるべく多くの科学者に科学哲学的な問題意識を有してほしい、とは思いますが)。
しかし、それを科学者サークル外にまで持ち込んで布教しようとするなら話は別でしょう。
そのような動きがもし出てくるなら、科学哲学の立場から健全なリアクションが出てこなければならない、と僕は思う(その現実の動きは実に微々たるもんだと思うが)。
別に僕がその動きを補完しようなどと思い上がっているわけでもありません(所詮は素人の戯言であります)。
しかし、もし(科学者が素朴に前提しているであろう)対応概念を少しでも相対化できたとしたら、それに勝る喜びはありません。


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