専門知に対する民主主義の優先

哲学チックな話が続いておりますが…(ブックマークが何気に嬉しい)


えー、タイトルはリチャード・ローティの「哲学に対する民主主義の優先」(『連帯と自由の哲学』収録)をもじっています(タイトルでピンときた方はローティマニアでしょう)。
この論文でローティが何を訴えたかったかを僕なりにまとめますと…
ローティは哲学によって民主主義を基礎づけるということ(もっと言えば基礎づけとしての哲学一般)に対して懐疑的である(否定的であると言った方が良いかも?)。
ローティは基礎付け哲学者の代表選手をカントと見做しており、基礎付け主義者をしばしばカント主義者と呼ぶ(まあ、これは余談)。


例えば、ローティは哲学者としてのデリダハイデガーに対する好意をあっけらかんと語るが、それでも民主主義をデリダ哲学、ハイデガー哲学によって基礎づけようとはしない(ローティ流に言えば、「デリダハイデガーはアイロニカルだがリベラルではない」)。
あるいは、ローティはリベラルな哲学者としてハーバーマスを称揚するが、ハーバーマス哲学によって民主主義を基礎づけようともしない(「ハーバーマスはリベラルだがアイロニカルではない」)。
こうしてローティは、哲学と政治(民主主義)の分離を謳い、民主主義を特定の哲学(者)によって基礎づけることを放棄する。
そして僕はローティのこの態度に対して、100%の賛意を表明する。


民主主義は決して学問的に基礎づけられるものではない(民主主義を基礎づけるものがあるとすれば、政治を自分たちの手によって運営しようとする「市民の意思」以外にはあり得ない)。


さて、ローティが上記のスローガンを発したとき、念頭にあったのは「文化左翼」とローティが呼ぶ文芸サークル(と敢えて言う)である。ローティにしばしば言及する宮台は、文化左翼としてカルチュラルスタディーズやポストコロニアリズムを挙げる(宮台はカルスタ、ポスコロと揶揄的に呼ぶ)。
宮台の妥当性はともかく、文化左翼とは「文芸上の専門用語(ジャーゴン)を駆使して、民主主義や左翼的なあり方を難解に解説し、民主主義や左翼を基礎づけようとする哲学者・思想家達」と言えるだろう(もっと言えば、「これくらいのことが分からずに民主主義を語るな」、という言い方をしがちな人である)。
Hatenaにもたくさんいそうだが…(偏見?)


ローティ流に言えば、「世の中にあるのは、民主主義に対する感受性を涵養するのに有用な(有効な)様々な語りであり、そのうちのどれかに特権的な地位が与えられているわけではない(つまり、民主主義を語る様々な言説が同等に存在している(全てがone of them)のである)」、ということになるだろうか?
ハーバーマスの社会哲学もそのような(民主主義に対する感受性を広げる)テクストの一つに過ぎない(一方、デリダハイデガーはその目的にとっては役立たずである)。


同様に、ローティ流に「経済学に対する民主主義の優先」とも言ってよいだろう(経済学者は猛烈に反発しそうだが)。
昨今の金融危機は、経済合理性(と考えられるもの)を過度に追求した(政治運営に関わろうとする「市民の意思」を蔑ろにした)結果とも言えるのではないだろうか?(少なくともそのような視点は必要だと思う)
もっと言えば、経済学者の声が大きくなり(ノーベル経済学賞が権威付けをする?)、政策決定において経済合理性(効率性やコストカット)が優先された結果、市民社会的成熟が後回しにされた。
つまり、「民主主義に対して経済学(的合理性)が優先された結果」と見做してよいのではないだろうか?


政治とは価値選択である」(このスローガンは文脈依存的な表現ではありません)
つまり、政策に特定の経済的合理性や哲学的合理性が仮にあるとしても、それに先立つ市民的価値選択がなければ、そのような選択は正統化されない。
経済的合理性なるものが仮にあるとしても、それは常に市民によって選択された価値を体現するためのものでなければならない。
そして、私見によればグローバリズム新自由主義と呼ばれる昨今の政治・経済的な潮流は決して市民的価値を体現するものではなかった。


同様に、「科学に対する民主主義の優先」も言えるだろう。
もはや多言は要しないだろうが…
科学的に正しいものを私たちが選択するかどうかは分からない(科学的価値は価値選択に現れる価値の一つに過ぎない)。
疑似科学をバッシングし、疑似科学的なものを許さないという価値が仮に科学的価値だとして(違うのなら全然構わないが)。
そのような価値が、もし市民的価値と相容れないならば何の意味もない(少なくとも市民社会的には)。


こうして、冒頭のローティのスローガンをより一般化して「専門知に対する民主主義の優先」ということが言えるだろう。
こういうことを書くと、「それは衆愚政治に過ぎない」「愚かな民衆を導く賢人が必要なのだ」「エリート主義自体が悪いわけではない」という反論(?)が、自称エリート(Hatenaの住民にもいる?)からは来そうだ。
もちろん、そういう反論(?)は大いにしてもらっていいと思う。
ただ、それをするなら、「民主主義に対する専門知の優先」を声高にしていただき、その理由を記して欲しいもんだとは思う(それがなければ自称エリートの駄々に過ぎない)。


一応蛇足ながら付け加えておくと。
僕は「専門知など不要」と言いたいわけではない。
以上の考察は、あくまでも「専門知と民主主義の優先順位に関して」、である。
市民的価値選択の上で、はじめて専門知を云々できる(政治論議上の意味を持つことができる)、ということが言いたいのだ。
それは、「専門知を語る人は、自らのアイデアが市民的価値に合致することを説得的に語らなければならない」、ということでもあり、「市民(素人)はそれを語れない専門家を持ち上げる必要は全くない」、ということでもある。

「テクストの文脈依存性」と「文脈のテクスト依存性」について 多少の追記あり

僕の投じた一石が、思わぬ(?)波紋を広げてしまったのかも知れませんが…
すでに収束気味?
だとしたら、新たな波紋を広げることになるのかも知れませんが…
前置きはこれくらいにして。


「テクストの意味はそれが置かれた文脈に依存する」という表現には、おそらく少しでも哲学的な話を齧った人ならば同意するだろう(多分)。
それは、「テクストの意味は、テクストを構成する単語の意味(および統語規則)によって特定される」という原子論的意味論とでもいうべき言語観に対するアンチテーゼである(ホーリスティック=全体論的な言語観と言い換えてもよい)。
ちなみに、原子論的意味論は、私見ではヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に最も象徴的に表れている。
論理実証主義はそのアイデアを極限まで推し進め、科学を正当化しようと試みた(が、残念ながら失敗に終わったと言わざるを得ない)。
その後のヴィトゲンシュタインが、原子論的意味論をむしろ解体するようにその哲学的思索を進めていったことは示唆的である(ヴィトゲンシュタインの哲学遍歴こそが哲学の教科書とでも言えるように思える)。
ちなみに言えば、原子論的意味論は「真理の対応説」あるいは「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観と親和的であります。
以下の論考ではテクストを比較的小さな文の塊(一文ないし数個の文)として想定する(一般にはある本一冊がテクストと見なされることも多い)。


ガダマーかな?、ある(文学の)解釈理論がある。*1
文学作品においては、個々の文(テクスト)が徐々に物語(文脈)を形成する。
そして、私たちは二つの作業を交錯させながら文学を読み進める。
その二つの作業とは次の通りである。
1.新たに出会うテクストを、(そこまで読み進めることによって)ある程度形成された物語(文脈)の中に位置づける。
2.新たに出会ったテクストによって、そこまで形成された物語(文脈)に新たな視点が加わる(文脈自体が変化を被る)。


もう少し砕けた(?)表現で言い直しますと。
物語は、取り敢えずは読み進めたところまでのテクストの総体であり、それが次に出会うテクストの解釈の枠組み(すなわち文脈)を形成する。
その意味で「テクストの文脈依存性」は正しい。
また、「文脈のテクスト依存性」もこの意味で妥当であろう(文脈は個々のテクストの総体として現れる)。
しかし、文脈はテクストの解釈の枠組みを提供するのみならず、常に新たなテクストによって文脈自体が変更を被る(ないし特定のテクストにより文脈が強く規定される)こともあり得る。
つまり、テクストと文脈が相互作用をしながら、一つの物語を形成する(弁証法チック?)。
それが、私たちがテクスト(特に文学作品)を読み進めるうちに経験する解釈の、大雑把な描写であろう。


文学作品で言えば、文脈には「文学史」的な歴史的文脈、「文芸批評」的な同時代的文脈、さらにはより広い社会的文脈(プロレタリア文学やロスジェネ論壇を生み出す社会構造的な文脈)も解釈の枠組みを提供する文脈として考えられる(文学愛好家はこのような文脈に通じているのだろう)。
まぁ、文学作品をほとんど全く読まない僕が文学を語るのもおこがましいにも程がありますが…


ドストエフスキーの『罪と罰』で言いますと(ずいぶん昔に読んだのでほとんど忘れてしまっていますが)。
ラスコーリニコフがソーニャの前にひざまづいて地面(足元?)にキスするという場面があったと記憶している。
この場面は、物語の中でその行為の意味合いが付与されると同時に(あるいはそれ以上に)、物語それ自体の相貌を強く規定している(少なくとも僕はそのように受け止めた)。
もう少し言えば、この場面が物語を逆照射し、それまでとは全く別の(というと言い過ぎか)相貌を際立たせるということだ(あるいは、何気ないエピソードに強烈な意味が付与される)。
おそらく、優れた(人の心を打つ)文学作品とは、このように一瞬にして物語に新たな意味づけを与えるものなのだろう(特定のテクストが物語をひっくり返す)。


これが僕のいう「文脈のテクスト依存性(「テクストの文脈規定性」といった方が妥当かな?)」である。


さて、テクストには文脈に依存的なものから、文脈から相対的に独立しているものまであるだろう(あらゆるテクストはそのスペクトルのうちにある)。
同様に、文脈を強く規定するものから、文脈のあり方には大きな影響を与えないものまであるだろう。
もちろん、特定のテクストがどの程度文脈に依存するか、あるいは文脈を規定するか、客観的な指標を与えることはおそらくできない(できることは、そのあり様を説得的に記述するくらいである)。


しかし、いくつかのポイントは指摘できると思う。
例えば、いわゆる「スローガン」は、文脈を強く規定する(少なくともそれが意図された)表現である、とは言えるだろう。
新自由主義政策が格差を広げた」というスローガンは、その主張の妥当性はともかく、格差が広がった現実(これ自体妥当性の検討の余地はあるが)を新自由主義政策の結果として(格差を新自由主義という社会的文脈の元に)見るように促す。
あるいは、「現在の日本は戦前への回帰を進めている」というスローガンは、現在の日本社会で進んでいる事態(政策的・社会的変化)を戦前の全体主義体制への回帰として(全体主義体制への回帰という文脈の元に)見るように促す(その主張の妥当性はともかく)。
つまり、スローガンは「文脈を強く規定する(ことが少なくとも意図された)表現だ」と言うことだ。
そして、スローガンはそれゆえ、(比較的)文脈から独立した表現が選ばれるだろう(文脈に依存したスローガンはスローガンとして役立たずである)。


さて、何を言いたいかといいますと…


例の「科学は自然の近似である」ですね(こちらの表現に関しては科学について(あるいは真理について)「近似」と「モデル化」についてを参照)。
さて、この表現は文脈依存的(文脈を特定しなければ意味を特定しづらい)でありましょうか?
この中で「自然」は文脈に比較的依存していると言えるかも知れませんが、「科学を云々する文脈での自然」であることは一目瞭然でありましょう。
つまり、「科学は自然の近似である」という文脈から(比較的)独立した表現をスローガンとして用いるのであれば、文脈に強く依存した意味を付与するのは間違っている(スローガンとして機能しない)。
逆に文脈に強く依存した表現であるとしたら、そのような表現をスローガンとして用いるのも間違っている。


本当に言いたいことは…
真理の対応説、「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観、と親和性の高い「科学は自然の近似である」なるスローガンを提示しておいて、文脈云々いうことはどうなのよ?と(むしろそのようなものとして科学を見るように意図したスローガンではないの?と)。


また、波紋を広げてしまうかな?

「実在性」と「真の値」について 追記しました(4/29)

なんか、πの「実在性」について僕が述べている、と思いこんで(?)トラックバックを送ってくださる方がいるのですが…
まぁ、トラックバックを頂けるのは嬉しいので邪険にするのもなんですが。


一応、確認のために述べておきますと、本シリーズ(科学について(あるいは真理について)「近似」と「モデル化」についてπの「真の値」について)において、僕が「実在性」という言葉を用いたことはありません(一応読み返してみました)。
さすがに、「実在性」という言葉を安易に用いると泥沼に入り込む恐れあり、という自覚くらいはありますので。
「実在性」について言えば、僕自身は「何が実在するかは実在性の定義に大きく依存しているため、実在性を定義することなく何かの実在について云々することはできない」、という立場であります(その実在性の定義が大問題なのですけどね)。


一応「好意の原理」を発動して考えてみますに…(僕っていい人?)
πの「真の値」という表現はしましたので、ひょっとすること「πの『真の値』という言葉を使うってことは、quine10はπの『実在性』を素朴に前提してやがるな」と考えていらっしゃるのかも知れません(違うのかな?)。
僕的には、そう考えたい気持ちは理解できなくはありません(同意はしませんが)。
「ある数の『真の値』にコミットする、ということはその数の『実在』にコミットしているに違いない」ということなのでしょう(あくまでも好意の原理を発動して解釈すれば)。


しかし、挑発的に言えば、「ある数(例えばπ)が『真の値』を有する」ということと、「その数が『実在』する」ということは全く別の事柄です(繰り返しますと、何が実在するかは、「実在性」の定義に依存します)。


例えば、光速が何らかの「真の値」を有する、と考えるからといって光速が実在する、と考えるのは奇妙です。
と言いますのも、速度とは単位時間にすすむ距離で定義されるものだからです(距離の定義、時間の定義でその値はいくらでも可変です)。
にもかかわらず、どのような時間の定義、距離の定義を用いようと、光速が「(定義ごとの)真の値」を有すると考えることは合理的です。
この場合、敢えて実在性にコミットするとしたら、「ある一定の速度(光速の『真の値』)を有する光の実在」に対してということになります。


あるいは、スコラ哲学のように「天使の真の定義」を考えるからといって、「天使の実在」にコミットしていると考えるのも少々(?)奇妙です。
同様に、πの「真の値」に言及することと、πの「実在性」にコミットすることの違いを認識して頂ければ、と存じます。


蛇足ながら付け加えておきますと、「真の値」と「実在性」を同一視する思考もまた、真理の対応説に依存していると言えるでしょう(πの「真の値」は実在に対応しているはずだ、あるいはπの「真の値」に言及するということはそれと対応するπの実在性にコミットしているはずだ、というわけです)。
しかし、これまで述べてきたように、「真の値」と「実在性」を同一視する思考は、(真理の対応説を素朴に前提した)思い込みに過ぎないと言えるでしょう。
ところで僕自身は、別に真理の対応説にはコミットしておりませんから、πの「真の値」を云々するからと言って、それがπの「実在性」に関連づけられるとは全く考えておりません。


以上述べたことに対して、あくまでも「いや、『真の値』に言及するってことは、実在にコミットすることになるのだ(そしてそれは間違いだ)」と言い張るのだとすれば(それは全然構わないのですが)、「πは3.14で近似できる」という表現をπの「真の値」に言及することなく、有意味に説明して頂く必要がありそうです。
あるいは、光速や天使の場合は違うが、πの場合は「真の値」に言及することは、実在にコミットすることになるのだ、ということであれば、なぜπの場合はそう言えるのかを説明して頂く必要がありそうです。


とりあえずは「真の値」と「実在性」については以上です。
トラックバックについては後ほど追記で。

追記(4/29) トラックバックは追記を読んでくれてからでもいいのに…

頂いたトラックバック続 πの実在性についてです。

πの「「真の値」について」では、πの真の値が実在すると考える理由をせっせと探していらっしゃいます。それは的を外しています(一部改変)。

「πの真の値(という表現)の有意味性」と「πの真の値の実在性」の違いを認識していただければ、と存じます(僕自身がコミットするのは、取り敢えずは前者です)。「取り敢えずは」の意味は、今後述べていくことになると思います。
ということで、「的を外すも何も、そんな的など狙っていない(そんな的があるのかどうかも知らない)」ということになるでしょうか?
というわけで、

科学について(あるいは真理について)の補強にはなっていません(一部改変)。

「補強」というよりは、「誤解を解く試み」いった方が正確な気がします(その試みは失敗に終わったと言わざるを得ませんが)。

πの「真の値」について

エントリーとして書くか、コメント欄に書くか、ちょっと迷ったのですが…
せっかくトラックバックを貰ったのだから、エントリーとして上げてみよう。
トラックバックπの実在性についてです。

まぁ、この手の話題に手を出した以上は、こういうツッコミは受けるだろうな、ということは(ある程度)想定していたのですけどね(しかもHatenaならなおさら。そういうこともあり、Hatenaに手を出してみたのですけど)。
Hatenaにはプロ(やその予備軍)もいるようですけど、はっきり言ってこっちはド素人ということは言っておこう(一応「逃げ」ではない「つもり」)。
ド素人なので、数理哲学的なところにはできるだけ踏み込まない形で書いてみよう。


確かに、「π(3.14159…)は真の値を有するか?」という問いは、「√2(1.4142…)は真の値を有するのか?」とか、さらには「0.999…は1と等しいのか?」という問いと同様の困難さを有しているとは思います。
その意味では、

近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ


なんてことを無批判に受け入れてしまってはいけません。

という批判は誠に正当だと思いますし、「われながら安易に書きすぎたかなぁ」とは思います。


その上で、尚も見苦しい抵抗を続けてみます。
「πはある実数値にいくらでも近づけていける」ということは言えると思います(確か、現在は小数点以下億の桁まで出ているとか)。
随分昔にε-δ法というのを読んだことがありますが、そんな感覚で。
もちろん、それをもって、「πはある真の値を有する」ということが言えるかどうかは、ビミョーかもしれません。


πの「真の値」については次のように考えてもらった方がよいかもしれません。
例えば、「√2を二乗すれば2になる」という操作的な定義は、「2は真の値を有する」とか「二乗する」が有意味ならば、それと同様の意味で「√2は真の値を有する」は有意味となるでしょう(「√2を二乗すれば2になる」は、「2を二乗すれば4になる」が有意味であるのと同程度の有意味性は有していると思われます)。
同様に、「半径1の円の円周は2πである」という操作的な定義は、「1は真の値を有する」とか「円には半径がある」とか「円には円周がある」とかが有意味であるなら、それと同程度の意味合いでは「πはある真の値を有する」も有意味であると思われます。


前エントリーで、πの「真の値」というとき、上記程度のことを想定していただければ、と思います。

考察が甘いです。哲学的な議論ではないなら、そんな、現場での活動に影響しないことが経験的にわかっていることにこだわるのは、不健全です。

まぁ、(学術論文ではなく)ブログの日記に書いていることですから…
「ブログに書くことは健全でなければならない」というルールは、(少なくともHatenaには)ないと思いますけど…(不健全=有害、でないとすれば)
「素人の知った風を鵜呑みにする人が出てくる」かもしれんからケシカランということなのかもしれませんが…(でも現場の活動にも影響しないわけですし)
そういう意味では、すぐにツッコミの入るHatenaのシステムは有効なのかもしれません。
僕的には、素人が知った風を述べにくくなる、というデメリット(?)もあるように思われますけど。

「つまらん! おまえのいうことはつまらん!」

まぁ、われながら「つまらん」こと書いてるなぁ、という自覚はありますので。

「近似」と「モデル化」について

自分の中でも今一つ(?)消化しきれてない気がするので、人様にどれだけ説得的に説明できるか、今一つ自信はないのですが。
せっかくトラックバックを貰ったので、頑張って書いてみよう。
トラックバックのURLを忘れてました(スミマセン)、コチラになります。

細かいなあ、オレも。

キーワードはエントリータイトル通り、「モデル化」と「近似」です。
まず、「モデル化」についてですが、一般には「モデル化とは、現象を理解・説明するための図式化ないし数式化」ということが言えるのではないかと思います。
で、「モデル化」で重要なことは、理解の手助けとなるかどうかであって、それが件の現象と近いかどうかはとりあえず問題にならない(モデルが現実と似ていれば理解の手助けにはなると思うが、必須ではない)。
その意味で、「モデル化」はとりあえず「近似」とは別物と考えられる。


科学とは別の例になってしまうが、「モデル化」の理解でわかりやすいのは地図だと思う。
地図は、それを使って特定の目的地に行けるかどうか(自分の居場所が分かるかどうか)が重要であって、それが現実の通りや店のあり方と近いかどうかは取り敢えずは問題にならない。
今はグーグルアースなんてのがあって、地域の写真も(任意の縮尺で)得られるが、通常はそれは地図としては役立たずである(その土地に馴染みのある人には使えるかもしれないが、そういう人はそもそも地図を必要としない)。
ここでは、写真を「近似」と見なしてもよいかもしれない。


次に「近似」についてですが。
「近似」とは、文字通りに受け取れば、二つの値(など)が近いという意味は最低限あるのではないかな?
つまり、近似を云々できるのは、二者関係についてであると。
で、科学的な領域に限って、どのような二者関係が想定されそうかというと…

「ある値について正確な値は分かっているが、それを使うと(計算が面倒などの)不都合があり、近い値で間に合わせる」
例えば、πを3.14で近似する。
「ある値についてまだ正確な値は分からないが、おおよそこの範囲内にあることが推定され、その範囲にある値を近似値として採用される」
例えば、(真空における)光速の正確な値が分からないが、大体30万km/秒くらいだと分かっているとき、光速を30万km/秒で近似する。
他にも考えられるかな?


いずれにしろ、「近似」という場合「真の値」を「近い値」で代表させる、という意味合いをやはり持っているんじゃないかなぁ?
で、「近似」というの場合は「真の値」へと(可能的に)より近づいていけるということも含意していると思う(「真の値」との誤差をどんどん小さくしていける)。
もちろん、ハイゼンベルク不確定性原理のように、正確な値を追求する限界点はあるのかもしれないが、とりあえずそこまでは原理的には正確な値を求めていける。


ということで、一応「モデル化」と「近似」の違いは示せたのではないだろうか?
もちろん、「近似」と言った時に、実は「モデル化」を想定している場合もあるかもしれない。で、「科学は自然の近似である」と言った人は、「科学は自然のモデル化である」と言いたいのかもしれない。
多分、ある人が「科学は自然の近似である」と言ったときに、たいていの人は「ああ、この人は『近似』という言葉を『モデル化』という意味で使っているのだな」と思うでしょう(好意の原理=Principle of charityってやつですね)。
その意味では、「科学は自然の近似である」は意味が通らないとは言えません(好意の原理に思いっきり依存した物言いが通じて当然だ、と思っているとしたら、僕は「そりゃないんじゃないの?」と言いたいですけどね)。


その意味では、僕のこだわりはほとんどビョーキと言えるものかもしれない(よく言っても言い掛かり)。
まぁ、分析哲学者というのは、そういう意味での(僕なんかには及びもつかない)ビョーキの人たちだろうし、そういうビョー的な概念へのこだわりが僕は結構好きなんですけどね(ま、これは本エントリーとは関係ありませんが)。


ちょっと思いついたのですが、地球シミュレーターなどはちょうど「モデル化」と「近似」の重なるところにあるのかもしれない。うまく言えないですが、単に「モデル化」というだけでは足りない気もします。
しかし、仮に「地球シミュレーターは地球の近似である」が言えるとしても、だからと言って「科学は自然の近似である」とは言えない(と思う)。


以下はトラックバックへの応答。

「二つのものが一致する可能性が想定されなければ、近似するもヘッタクレもありません(近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ)。」というのも、それこそが、真理の対応説に則った思考形態であり、勘違いである。

「二つのものが一致する可能性が想定されなければ、」は余分な気もしてきました(あっても別にかまわない気はしますけど)。

僕が言いたかったことは、「近似する」は「対応ないし一致する」を前提としなければ意味を持たない(逆も多分真)ということです。
言いかえれば、「近似する」と「対応ないし一致する」は相互規定的であるということ。
これが「真理の対応説に則った思考形態であり、勘違い」だとすれば(それは全然構わないのですが)、「真の値」を用いずに「近似値」を説明してもらう必要がありそうです。

例えて言うなら、「地球はどんな姿をしているのか?」というのを科学は「球体である」と言っているようなものである。

これは「近似」というよりは「モデル化」と呼べそうですね。

科学で立てるモデルは常に自然を抽象化単純化させたものである。それが真と合致するということはありそうにもないし、それがどれだけ一致しているか、というのは、古い理論と比べて「どちらがよりよく説明できるか」という比較でしかない。


ええ、私たちに言える(あるいは争点にし得る)ことは、どれだけ「よりよく説明できるか」という比較「だけ」ですね。
もちろん、「よりよく説明できる」科学理論を提唱した人(やそれを賞賛する人)が、「世界の真の姿により一歩近づいた(近似した)」と表現する権利はあると思います(し、そう言いたい気持ちも十分に理解できます)が、それでも科学理論は諸現象を「(合理的に)説明できる」以上のことは(厳密に言えば)言えないはずです(繰り返しになりますが、科学理論が自然に一致するということが有意味でなければ)。
もし言うとすれば、「よりよく説明できる」という概念に「真の姿により近づいている(より近似している)」という意味を密輸入したにすぎません。

つまり、もう自然科学(とあえていうが、別の分野でも大抵そう)が、近似という概念を厳密な意味での「真理」というか一般的概念の「真理」を用いて説明することはちょっとない。


「真理」という言葉を使うかどうかは別にして。
繰り返しになりますが、「近似」という概念が、対応ないしは一致(としての真)を前提にしなければ意味を持たない。
ということが言い過ぎであれば、「近似」という概念は、対応ないしは一致(としての真)と親和性が高い。
ことが書きたかったわけです。
ま、些かデフォルメした書き方をしましたけど。

だからと言って、その探究が無意味であったとかってのは言わないよ。より良く分かる方へ科学は発展していくんだ、というだけだよ。


ええ。
僕としては、「より説明できる」とか「より良く分かる」で留まってくれるならいいのです。
それが、いつの間にか「より近づく」とか「より近似していく」とかで置き換えられると、「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観がこっそり密輸入されている、ということなのです。

科学について(あるいは真理について)

えー、FC2のブログでは疑似科学に関することを取り上げて論じたこともあるわけですが(疑似科学批判ではなく)、当ブログでは疑似科学を取り上げる予定は当面ありません(未来永劫ない、とも言いませんが)。
最近、疑似科学批判(あるいは疑似科学批判批判、さらには疑似科学批判批判批判、and more…)に関わるブログ間のやり取りを眺めていて、思うところがあるので述べてみよう。
ただし、疑似科学に関するものではなく、科学に関するものであるが。
もちろん、疑似科学批判は主に科学的見地からなされる以上、科学に関することがらが疑似科学と全く無関係と断ずることも出来ないのだが。
言いたいことは、僕自身はこの論考を疑似科学(ないしは疑似科学批判)と絡めて論じるつもりはない、ということである(他の誰かがこの論考と疑似科学を絡めて論じることを阻む意思は全くない)。


では、本題へ。
えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。
「科学は自然の近似である」
「えっ?」と。
「マジで言ってんの?」と。
軽いショックを受けつつ読んだのですが、そのコメント欄では上記の表現に対して何のツッコミも見られなかった(ざっと読んだところ)。
少なくとも、そのブログエントリーでコメントを残す人の比率で言えば、疑似科学批判派>>疑似科学批判批判派であった。
ということは、疑似科学批判派の科学観は、「科学は自然の近似である」と大きく違わないのだろうか?
それとも、「科学は自然の近似である」はあまりにトンデモだから取り上げることもバカバカしいということだろうか?
この辺りは当人達に確認すべきでしょうね。


以下では、「科学は自然の近似である」という科学観が疑似科学批判派に共有されているという前提で考察を進めていく(ま、別に共有されてなくても変わりませんが)。


ちょっと回り道をすることになりますが…
哲学的に言えば、真理に関する説には少なくとも二通りある。
真理の対応説真理の整合説である。
ジョーシキにマッチしているのは前者の真理観で、科学哲学的な疑問を発したことのない科学者(やその予備軍)の持つ真理観であると言い切ってよいと思います。
真理の対応説とは、簡単に言えば、「言説は、それが言い表す事象と『対応』している場合に真である」という説である。
例えば、「雪が白い」は雪が白いという事実に対応していれば真である(そして、通常は雪は白いので「雪は白い」は真理であると考えられる)。
科学一般に敷衍すれば、「科学(理論)は、それが言い表す自然現象に対応していれば真である」ということになるでしょう(そして、自然科学は様々な自然現象をうまく説明し、予測し、様々な技術として体現されるがゆえに、自然現象に「対応」していると見なされ、それゆえに真理であると考えられる)。
このように見れば、真理の対応説がジョーシキにマッチしている、ということが理解できるでしょう(というか、科学者が真理の対応説を採らないことの方が難しいかもしれません)。


以上を踏まえれば、先の「科学とは自然の近似である」は、真理の対応説を前提としていることが見て取れるでしょう。
巧妙に(?)「近似」という言葉が使用されていますが、「近似」とはそもそも「一致」ということが(少なくとも理念的には)想定されなければ意味を持ちません(ある一定の誤差があるために「近似」と表現される)。
二つのものが一致する可能性が想定されなければ、近似するもヘッタクレもありません(近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ)。
そして、「近似」は、誤差が小さくなればなるほど「一致」へと近づくわけです。
誤差が無視できるほど小さくなれば、「一致」と呼んで差し支えない。
そして(「科学と自然の近似の誤差」が無視できるほど小さくなり)科学と自然が一致するならば、「科学と自然は対応している」となる(=真理の対応説)。


しかし、真理の対応説(という素朴な真理観)を多くの科学者が採用するからといって、真理の対応説が正しいとはなりません(多数決が正しさを担保するわけではない、ということはほとんどの科学者や疑似科学批判派が同意してくれるでしょう)し、そもそも真理の対応説がどれほどの意味を持つかを考えてみるべきでしょう。


それにしても、疑似科学を云々する人(少なくともブログ等で疑似科学批判を行う人)は、「科学とは何ぞや?」という科学哲学的な問いを有しているもんだと思う(そう思いたい)。
それが「科学とは自然の近似である」ですかそうですか…
科学をどう定義するかは、科学哲学の根幹に関わることでしょうから、僕のような素人には簡単には出来ませんが。
しかし、科学とは、言語や数学といったシンボル操作によって自然現象を記述する試み、ということは最低限の条件として言えそうな気がします。*1
哲学っぽく、科学とはある種の言語ゲームである、と言えばさらに分かりやすいかもしれません。


では、ある種のシンボル操作ないしは言語ゲーム(である科学)が自然と「対応」ないし「近似」しているとは一体どういうことだろうか?
一般に、近似とは、二つの事柄が備える性質が同等の場合に意味を有する。
例えば、「πの近似は3(あるいは3.14、さらには3.14159…)である」と述べる場合、πはある種の数値を取るということが前提である(それゆえ先の言葉は意味を持つ)。
「蟻の近似は3(あるいは3.14、さらには3.14159…)である」が全く意味をもたないのは、蟻はある種の数値ではないからだ(もちろん、蟻の体重や身長といったことに焦点を当てるなら、それはある種の数値を取ると言える)。


さて、自然とは言語や数字といったシンボル(操作)だろうか?
もし、シンボル(操作)と言えるなら、同じシンボル(操作)の一つである科学との近似を云々することには意味があるだろう(シュレーディンガー波動方程式ハイゼンベルクマトリックス理論は数学的には同値である、という風に)。
しかし、自然界の蟻や台風や地震や太陽や銀河やetc…は、決してシンボル(操作)ではない。
したがって、「科学とは自然の近似である」は、本来なら意味を持たないはずだが…


真理の対応説(という素朴な真理観)がいまだに大手を振るっているということなのだろうか?
真理の対応説を素朴に前提して猪突猛進した論理実証主義は、クワインらによって見るも無残に打ち砕かれたはずだが…(ま、論理実証主義の自爆的な側面の方が大きいかもしれないが…)
だとしたら、クワイン(さらに辿ればヴィトゲンシュタイン)以降の分析哲学の影響は微々たるものなんだろうなぁ…
頑張れ、分析哲学者!


最後は大分本題からはずれてしまったかな?

*1:僕の理解では、シンボル(操作)とは人間という種に特有の認知機能であり、その意味では自然現象の一つと言えるが、それを認めるとあらゆる社会現象が自然となってしまい、逆に自然の意味が失われてしまう。

陰謀論について

先日取り上げた、『日米同盟の正体 迷走する安全保障』から陰謀論(陰謀説)に関するメモ。
外交に直に関わった人の言葉だから、その辺のブロガーの知った風よりはよっぽど説得力があると思われ。

陰謀論の行使には大別二つある。一つは偽旗工作(false flag operation)と呼ばれるものである。このケースは敵に成りすまして行動し、結果を敵になすりつける。(中略)第二は敵が攻撃に出る際、敵の行動を誘導し、間接的にその実現を支援する。真珠湾攻撃は後者に属する。9・11同時多発テロに関しても後者との関連がしばしば指摘される。(67-68ページ)

第一章で、日本人は戦略的な思考が弱いことを見た。特に、謀略、陰謀論的な動きが出ると、「それはあり得ないでしょう」と思考を停止する。そもそも陰謀論的動きは発覚しないことを目指している。謀略は通常人的犠牲を払い、その犠牲に対する怒りを利用して目標を達成する。犠牲者を考えれば、謀略を行ったとは口が裂けてもいえない。当然責任者は否定する。百パーセントの確証が出ることはない。こうして信頼に足る人は陰謀論に手をつけない。ますます、日本人は陰謀・謀略を理解できなくなる。(69ページ)

第一章冒頭で紹介したニクソンの『指導者とは』を再度、見ていただきたい。陰謀論をはねつけることの危険性が理解できるだろう。
ニクソンもまた、指導者の資格で、「権謀術数は指導者になくてはならない」と述べ、ルーズベルトリンカーンを引用している。(70ページ)

ちなみに、ニクソン『指導者とは』からの引用は次の通り(一部のみ)

権謀術数などは一般的にあくとされるが、指導者にはそれはなくてはならない。(中略)ルーズベルトは、絶対に参戦しないと公約しながら、密かに戦争準備を進めたのだった。(中略)権謀術数を用いなければ、大事に当たって目的を達成できない場合が多いのである。(後略)(24ページ)

そして陰謀論の具体的事例として、ベトナム戦争のきっかけとなったトンキン湾事件と、(ケネディに却下され実現はしなかった)キューバ攻撃を意図して計画されたノースウッド作戦が取り上げられている。

戦争は人命の損失を前提とする。人命のやり取りを是認する現在の国際関係において、陰謀、謀が存在するのは自然なことだろう。各国は自己の国益に基づいて陰謀、謀を行っている。しかし、陰謀、謀をされる国にとっては、武力を使われるより、厳しいものがある。第二次大戦後CIAは米国国内で本当に必要なのかと幾度となく批判され、その存在を脅かされた。そのときCIAが言う台詞がある。「戦後の日本を見てくれ。われわれの工作の傑作である」。春名幹夫氏は『秘密のファイル』(上・下)で、CIAの対日工作を記している。(83ページ)

しかし、日本のどこに陰謀・謀を真剣に学んでいるところがあるだろう。官庁にない。大学にない。研究機関にもない。ときどき、いかがわしい書籍が出て陰謀論を解き、知識階級はますます陰謀論を馬鹿にして遠ざかる。日本に対して「謀」を仕掛ける国からすれば、日本人が陰謀論、謀を一笑に付して、知識層がそうした戦略に何の考慮も払わないことくらいありがたいことはない。(84ページ)

一笑に付されるどころか、陰謀論疑似科学とほとんど変わらないものとして、ちょっとでも陰謀論めいたことを述べるとどこからともなく陰謀論バッシングが沸いてきますからねぇ…
これもCIAの対日工作の成果なのでしょうか?
だとしたら、やはりCIAの「戦後の日本を見てくれ。われわれの工作の傑作である」は正しいと言わざるを得ませんねぇ。