観察の理論負荷性について

えー、ここのところ科学哲学チックな話題が続いていました(まぁ、僕の好きな話題ですので)。
で、とあるブログをチラ見して、科学哲学に関して「オイオイオイ、そんなことなのかよ!?」と思わずツッコミたくなるエントリーに遭遇したので少し述べてみたい(そのブログエントリーについては後ほど言及)。


再び論理実証主義についてですが…
取り敢えず、おさらい。
論理実証主義は、「(事実と対応する)真理としての科学」なる科学観に立っている、という旨をこれまで書いてきました(そして、この科学観はそれほど奇異ではない旨も)。
そして、科学的言明の真理性、すなわち科学が事実と対応している、ということを証明しようと試みました(が、結局は壮大な失敗に終わった)。
「科学と事実の対応」が不発に終わったからといって、「科学と事実(自然)の近似」に退却すればいいと考えるとしたら、思考停止にも程があると僕は思うが…まぁ、それはよいでしょう。
さらに言えば、論理実証主義は真なる言明の集合としての科学(理論)だけを(意味ある言明として)残し、それ以外の言明を(無意味として)放逐しようとしました(その意味では、科学主義の権化と言えましょう)。
それは疑似科学優生学マルクス主義など)や形而上学を偽なる言明として放逐しようとする、憎悪(ないし敵意)とも呼べる感情と一体でありました(その辺りは現在の疑似科学バッシングとも相通ずるような…)。


まぁ、論理実証主義誕生の背景についてはこれくらいにして。


論理実証主義は、科学の真理性を担保するために、科学と事実の接点を想定せざるを得ません(科学が事実といかなる接点も持ちえないのであれば、科学と事実の対応など望むべくもないからであります)。
そして、重要なことは、もし科学が事実との接点を有するのであれば、その接点には科学が関与してはならないということだ(論理実証主義的な立場からすれば)。
言い換えれば、科学と事実の対応を云々するためには、科学とは独立した事実との接点が必要になる。
というのも、事実との接点それ自体が科学と関係するならば(科学的に求められるならば)、科学と事実の対応が科学的に基礎づけられるという事態に陥ってしまうからだ(それは循環論法に他ならない)。
言い方を換えてみますと…
科学と事実の対応が、すなわち科学の真理性が、他ならぬ科学によって担保されるとしたら、その担保には一体どれほどの価値があるだろうか?
それは、「科学は正しいのだ、なぜなら科学が『科学は正しい』と言っているからだ」、と言うに等しいのだ。
つまり、科学を基礎付けようとするなら(カントはまさにそれを試みた)、科学によるわけにはいかないのだ。
ちなみに、ローティは基礎付けそのものを放棄しようという立場ですね(僕も同じ立場です)。


ちょっと回り道をしました。
では、論理実証主義は、(科学とは独立した)科学と事実との接点をいかにして確保しようとしたのでしょうか?
結論から言いますと、観察文ですね。
もっと言えば、感覚与件とかセンスデータになりますが…
感覚与件あるいはセンスデータとは、(理論を通さず)人々に直に与えられる経験的事実とでも言えましょうか。
例えば、リンゴを見た時に、それがリンゴかどうかは間違い得るが、赤くて丸いもの(を見た)という感覚は絶対のものだ、ということですね(今風に言えば、クオリアの絶対性とでも言えるでしょうか)。
このような感覚与件あるいはセンスデータによって構成される文を観察文と呼びましょう。


論理実証主義のプログラムを単純化して言えば次のようになります。
すなわち、科学という高度に抽象的な理論体系も、観察文という(科学と独立の)経験的事実に還元できるならばそれは真なる言明(すなわち事実と対応する)であり、それは実際に還元できる、として科学理論の観察文への還元へと猪突猛進することになります(ここに還元主義が現れているわけです)。
論理実証主義が論理的経験論とも呼ばれる所以であります。


ふー。随分長い前置きになりました。
見てきた通り、論理実証主義のプログラムが正しいためには、理論によらない観察文の存在が不可欠になります。
そして、「観察の理論負荷性」とは、そのような観察文の存在を否定する(つまり、どのような単純な観察文も何らかの理論を前提にしている)というテーゼであります。
それは、明確に論理実証主義のプログラムを否定するものです。
ただし、僕は現時点では、「観察の理論負荷性」ではなく「観察の言語(ないし概念)依存性」くらいが妥当だと思っています。
そして、言語の全体論的性質を鑑みれば、やはり論理実証主義のプログラムは放棄せざるを得ない、という立場であります。


さて、問題のエントリーですが、ズバリ池田信夫氏の朝日新聞の「財界悪玉論」だ。
最後の方に観察の理論負荷性について述べられているので一部引用する。

自省をこめていうと、報道の現場にいると事実をもれなくフォローしなければならないというプレッシャーが強い一方、理論は専門家のコメントにまかせればいいので自前で勉強しない。しかしすべての事実は理論負荷的なので、特に環境のような経済問題について、経済学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ

事実の理論負荷性となっているが、事実の記述(すなわち観察)の理論負荷性と読み替えて構わないだろう。
池田氏は、事実が理論負荷的であるから、理論は正しいと言いたいようだが、残念ながら氏は「観察の理論負荷性」を全く理解していないと言わざるを得ない。
上で見てきた通り、「観察の理論負荷性」は、どんなに単純な観察文であっても何らかの理論に依拠している、ということを指摘するだけであって、その観察文が依拠する理論の正しさについては全く言及しない。
例えば、木をのこぎりで切るのを見て「木が(痛がって)泣いている」という観察文を発する人がいるとしよう。
これはアニミズム的な世界観に依拠している(アニミズム理論負荷的と言える)だろうが、だからと言ってアニミズムが正しいとは全くならない。


つまり、経済的な事象を述べることは、理論負荷的(経済理論負荷的?)とは言えるが、そのこと自体は経済学の正しさを全く担保しないわけだ。
つまり、経済学に依拠せよ、と言いたいのならば経済学者が経済学の正しさを示す以外にない(「観察の理論負荷性」などを持ち出したところで、経済学に依拠する理由には全くならない)。


氏の言葉をもじって言えば、「観察の理論負荷性」のような科学哲学的な問題について、科学哲学の初歩も理解しないで直感でものをいうのは間違いのもとだ、ということになるだろう。
ひょっとして、「『観察の理論負荷性』という科学哲学チックな言葉を持ち出せば、説得力が増すだろう」とでも考えたのだろうか?(だとしたら、浅はかにもほどがあるが…)

それによって恥をかくのは小林氏や石井氏ではなく、朝日新聞である。

池田氏が恥をかいていないことを祈るばかりである。


池田氏の哲学レベルについては、コチラでも言及しました。よかったらご参考に。