デイヴィドソン『真理・言語・歴史』1

ドナルド・デイヴィドソン『真理・言語・歴史』を読書中です。
なんとも難解ですが、やはりデイヴィドソンは面白い。
言語問題の中枢に真正面から切り込んでいる、と言いますか…


読み進めていくうちに、賛同する部分と賛同できない部分が出てきたので、メモ代わりに記しておこう。
詳細をあまり論理的に詰めて行く余裕はないので、あくまでもメモ的に。


まず、デイヴィドソンは言語の「意味」を「真理」との関わりにおいて捉えようとする。
ただし、デイヴィドソンは「真理」を定義しようとはしない。
それどころか、「真理」を定義しようとするいかなる試みも退ける。
ということはどういうことか?
「真理」は定義するまでもない基底的な(それ以上遡及できない)概念であるということに他ならない。


ところで、デイヴィドソンの意味論は、真理条件意味論と呼ばれる。
砕いて言えば、言語の意味は真理条件によって与えられる(端的に「言語の意味とはその真理条件である」と言ってもよい)。
真理条件意味論は次のように表現できるだろう。


真理条件は次のように定式化できる

真理条件:sが真であるのは、pであるとき、そのときに限る(ここで、s、pにはそれぞれ特定の文章が入る)

そして、s、pが上記の真理条件を満たすとき、sの意味はpである、と言える(pの意味はsである、と言っても同じことである)。

例えば、sを「Snow is white」、pを「雪は白い」としよう。
このs、pが上の真理条件を満たすならば、「Snow is white」の意味は「雪は白い」である、と言ってよい。
これが真理条件意味論である。


ところで、「真理」を定義しようとする様々な試みがなされてきた。
代表的なものが、「真理」を「事実との対応」によって定義しようとする試みである(真理の対応説)。
これは一見素朴で、しかも科学の成功を実にうまく説明できるがゆえに強力でもある(しかし僕はこの説は取らない)。
このような試みをデイヴィドソンはひっくり返し、「真理」こそが基底的で、意味を生じさせるものである、と説く。
哲学においてはこのちゃぶ台返しが心地よいのだ(心地よいだけでもないのだが)。


それはともかく。
言語が意味を持つがゆえに、私たちのコミュニケーション(意思疎通)が可能となり、言語が意味を持つのは、まさに「真理(条件)」による、というのがデイヴィドソンの立場である。
それゆえ、デイヴィドソンは「真理」のデフレ主義者(「真理」抜きに物事を論じようとする人々:リチャード・ローティはその一人だろう)をも退ける。
(真理条件意味論によれば)言語の条件に「真理」がある以上、「真理」を無視できないのは当然であろう。


ところで僕自身は、「真理」のデフレ主義者と自己規定してきた(今も多分そうである)。
デイヴィドソン流の「真理条件意味論」にコミットしつつ、「真理」のデフレ主義者であることは可能か?
それが多分、僕の取り組むべき課題なのだろう。