『真理・言語・歴史』2 「意味」と「意図」

ドナルド・デイヴィドソンの『真理・言語・歴史』を読んで(まだ読書中)、第二弾です。
本日は主に異論を。


デイヴィドソンの意味論(言語がいかに意味を有するか)は、真理条件意味論と呼ばれる。
簡単に言えば、「文の意味とは、その真理条件である(文の意味を知るとは、その真理条件を知ることである)」、ということである。
例えば、「Snow is white」の意味は、この文章の真理条件によって与えられる。
そして、「Snow is white」の真理条件が、「雪は白い」のそれと同じであるとき、「Snow is white」の意味は「雪は白い」と言ってよい(「雪は白い」の真理条件は知られていると仮定する)。
大雑把にまとめれば、以上が真理条件意味論である。
僕自身は、真理条件意味論に一定の意味(意義)を認めるのに吝かではないが、意味がこれに尽きるのか、というところには一定の疑問を持っている。


一方でデイヴィドソンは、話者の発話に込めた「意図」を、その発話の「意味」にとって本質的だと見做しているようにも思える。
話者の「意図」とは具体的には、自らの発話を「これこれのように理解してもらおうとする意図」である。


もし、デイヴィドソンが正しいとすれば、「『(発話の)意味』にとって発話者の『意図』が本質的である」と「真理条件意味論」との整合性が保たれなければならないだろう。
しかし、「意図」は一般的には心的概念と考えられている(僕自身が「意図」をどう捉えるかはエントリーを改めて)。
真理条件は決して心的なものにはとどまらない(心的なものを含まない、という意味ではない)。
つまり、「真理条件」は必ずしも「意図」を含まない。
とすれば、言語の「意味」にとって、話者の「意図」は必ずしも必要とされない(はずである)。


僕の考えでは、言語に意味を与えるのは、「話者および解釈者の言語的背景(それぞれがどのように自らの言語を発展させてきたか)」、その発話がなされる「社会的文脈(に関する各々の理解)」、そして実際に「どのような発話がなされたか」、である。
これらが相互にすり合わされることにより(通常はこのすり合わせは、殆ど無意識に行われるが)、発話が意味あるものとなる。
そして、僕の考えでは、真理条件は、「話者および解釈者の言語的背景」に関わるだろう(それと同一とまでは言わないが)。
しかし、一方上記の図式には、「意図」の入り込む余地はないと思われる(可能性としては「社会的文脈」か)。
つまり、言語の意味が成立する上で、「意図」は必要でもなければ、十分でもない。