「事実との対応」という観念について

先日のエントリーでは、私たちが自然科学などのうまく機能する概念装置を前にして、「なぜこの概念装置はうまく機能するのか?」と問う時(「なぜ?」を問う存在である人間にとって、これはほぼ必然的な問いである)、因果的な枠組みでこの問いに答えようとすれば、「この概念装置が事実と対応しているから」となることはほぼ必然だ、ということを確認しました。


異論がある方はコメント欄でどうぞ。


さて、「事実との対応」という観念に対する批判の代表には、「言明が事実と対応するとはどういうことか?」を事細かに分析して批判する、というのがあります。
ここではその詳細には踏み込みませんが(と言っても、大層な分析はできませんが)、簡単にヒントを出すなら、「言明と対応する事実をどのように指示せばいいのか?」を考えればよいでしょう。


では、本エントリーでの「事実との対応」観念に進むことにします(なにぶん素人なもので、誰かがこの手の批判を行ったかどうかは知りません)。


えー、「事実との対応」という観念は象徴的には、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」、という形で表されます。
上記のバリエーションの一つに、「自然は科学の近似である(それゆえ真である?)」というテーゼがありますが、これについては以前に批判したのでここでは繰り返しません。


さて、上記の「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」を考えてみましょう。
この言明の真理値は一体どうなっているのでしょうか?
言い換えれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」は真でしょうか?偽でしょうか?それとも真でも偽でもない言明なのでしょうか?


すくなくとも、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」というテーゼにコミットする(=事実との対応という真理観に立つ)人は、この問いに答えなければならない。


上記の問いの答えが「真である」としましょう。
とすれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」という言明が対応するべき「事実」を示さなければなりません。
そうでなければ、「言明は、それが事実と対応しなくても、真(理)である(場合がある)」ということを認めることになるからです。
「事実との対応が真(理)と決めるのだ!」とリキんでいた人物が、「事実と対応しない真(理)がありました、エヘ」と舌を出すようなもんです。
もちろん、方向転換をするのは勝手ですが、その場合「真とはどういうことか?」を改めて示さなければなりません。


僕からすれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」ような事実などどう逆立ちしたところで示せるわけなどありません。
もし、「オレはそのような事実を示せるぜ!」、という人がいれば、このコメント欄ではなく、哲学雑誌に投稿しましょう!(哲学史上もっとも重要な論文になること請け合いです)


もちろん、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」ような事実が示されないからと言って、このテーゼが偽と証明されるわけではありません。
しかし、当然のことながら偽と証明されていない命題が真であるわけもないのであります。
「神はいない」ことを証明できないからと言って(悪魔の証明ですけどね)、「神がいる」ことにはならないのと同じことです。


真と証明されない言説(例えば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」)に拘泥することを、一般的には教条主義と呼べるでしょう。
このドグマから解き放たれることは簡単です。
「事実との対応」という観念を放棄しさえすればいいわけです。
まぁ、それが難しいんでしょうけど(僕自身、容易にこの考えに傾きますし)。


「事実との対応」という観念に対する根本的な批判にはなっていないかもしれませんが…
根本的な批判を要求すること自体が、知的強迫と言いますか…
ま、健全な懐疑主義を身につけるためには、「事実との対応」という一見もっともな観念を批判できなければならないってことでしょうか。


なんかきれいにまとめ過ぎたような…