「近似」と「対応(としての真)」の親和性(ないし連続的移行可能性)について

「テクストの文脈依存性」と「文脈のテクスト依存性」についてコメントを頂いた。
コメントは引用しませんので、各自でご確認ください。


当初のエントリー(科学について(あるいは真理について)「近似」と「モデル化」について)と内容的には重複することになると思いますが、「科学は自然の近似である」がいかなる前提に基づいているか、科学哲学的により突っ込んで(ということはツッコミどころもその分増えるということですが)書いてみようと思う。
まぁ、なかなかに骨の折れる作業であることは承知していますので、どこまでできるかは保証の限りではありませんが。


さて、「科学は自然の近似である」という場合の前提とは、一つは、「自然は実在する」という信念であります。
これは多分ほとんど全ての科学者が前提とする自然観・世界観でありましょう(というか、この信念抜きに科学という営みは不可能といってもよいかも知れません)。
次に、「自然は実在する」の一バリエーションとして、「実在は(気まぐれによって)コロコロ姿を変えたりしない」というのも考えられる。
というのも、(気まぐれで?)コロコロ姿を変えるものがあるとして、そのようなものの実在を云々することは想像もできないからだ(今日は蛙、明日は犬、明後日はノートパソコンに姿を変えるものがあったとして、それを何らかの実在と想定することは私たちには困難であろう)。
これは次のように言い換えられる、すなわち「実在は何らかの規則、通常は因果律に従った振る舞いをする」という信念である。
(実在する)犬が、タンパク質が、機関車が何らかの変化をする時、通常そこには何らかの因果的な影響が及ぼされた、と考えるわけだ。



そして、「何らかの規則(通常は因果律)に従った実在(の総体)」として「自然」を考えることにしよう。
これが「自然は実在する」という表現の意味である。
そして、「何らかの規則に従った実在(の総体)としての自然」を科学が言い当てられた場合、「科学は自然と対応している」と表現されるだろう。
もちろん、この前提として、「特定の言明が実在(のありよう)を言い当てる」ということの有意味性が担保されなくてはならない(のだがそれは措く)。
こうして、「科学は自然と対応している」が仮に有意味である場合、その前提には「自然は実在している」という実在論的信念があることが示せたと思う(実在論的信念を前提にして初めて「科学は自然と対応している」という表現が有意味となる)。
そして、「言明(例えば科学)が対象(例えば自然)と対応している」ということが有意味であるとしたら、それを真(理)と呼ぶことはそれほど奇異ではないだろう(というより、それを真と呼ばないとしたら何を真と呼ぶだろう?)。


取り敢えず、ここまでのまとめ。
「科学は自然に対応する(がゆえに真である)」という科学観(自然と対応する真理としての科学)の有する前提をまとめます。
「自然は実在する」「実在は何らかの規則(通常は因果律)に従った振る舞いをする」「実在(のありよう)を記述することができ、真なる記述は実在と対応している(あるいは実在と対応する記述を真なる記述と呼ぶ)」「真なる記述の総体として、(自然と対応する)真理としての科学という科学観が有意味となる」


では、次に「科学は自然に対応する」と「科学は自然の近似である」の親和性(もしくは連続的移行可能性)について


ここでは、「近似する(≒近づく)」の概念分析を試みてみたい。
「近似する(≒近づく)」は第一義的には空間的な概念であり、二義的には時間的な概念である(三義以降はこのいずれかのメタファーになるだろう)。
いずれにせよ、ある目標(点)が存在し、その目標(点)に空間的または時間的に接近することを「近似する(近づく)」と表現してよいだろう(繰り返しになるが、それ以外の「近似する(近づく)」は多分このメタファーで表わされる)。
ただし、この場合目標(点)は厳密に知られている(ないし知られ得る)という前提はなくてもよい。
「近似する」が意味を持たないのは、目標(点)が有限の範囲にあるということが想定されない場合である。
平たく言えば、「目標がどこにあるかもわからないのに、近似もヘッタクレもあるか」ということになります(的のないダーツで、どっちが勝者かを考えてみるべし)。
目標が有限の範囲にあるならば、二つのものの近似を比較可能である(Cが特定の範囲内にあることが前提にあってはじめて「Aに比してBの方がCにより近似している」という表現は有意味になる)。
例えば、「3よりは3.14の方がπにより近似している」や「1.4よりは1.414の方が√2により近似している」が有意味であるのと同様に。
ただし、二つの近似は常に比較可能であるとは限らない(どちらか一方がより近似していると言えない場合もある)。


これを「科学は自然の近似である」に敷衍して言うと。
このテーゼを前提にするならば、「科学理論Aよりも科学理論Bの方が自然により近似している」という表現が有意味でなければならない(二つの理論との距離関係を云々できないとするなら、近似という表現そのものが意味を失ってしまう)。
そして、科学が一般に年次を追うごとに進歩(ないし進化)している(と思われているだろう)ことに鑑みれば、「科学は自然の近似である」という科学観にコミットしているおそらく全ての人は、「16世紀の科学より17世紀の科学の方が(17世紀の科学より18世紀の科学の方が、18世紀の科学より19世紀の科学の方が…)より自然に近似している」ということに同意するだろう。
もし異論のある方は是非申し出て頂いて、「二つの時代の科学の自然への近接性(近似性)について云々できないにもかかわらず、『科学は自然の近似である』が一体いかにして有意味性を保つことができるか」、説明して頂きたいと思う。



また、「より近似していく」ということが有意味だとすれば、それは「誤差がより小さくなっていく」ということに他ならない(何の誤差かと言えば、自然と科学の誤差に他ならない)。
つまり、「科学理論Aの方が科学理論Bよりも、より自然に近似している」ということは、「自然と科学理論Aの誤差の方が、自然と科学理論Bの誤差よりも小さい」ということに他ならない。
そして、一般に誤差は(少なくとも理念的には)より小さくしていける(原理的に埋めることのできない誤差でなければ)。
つまり、「自然と科学理論A´の誤差」が「自然と科学理論Aの誤差」よりも小さくなるように、さらに「自然と科学理論A´´の誤差」が「自然と科学理論A´の誤差」よりも小さくなるように…、と自然科学をより進化させていくことが(少なくとも理念上は)可能でなければならない(繰り返すが、あくまで「科学は自然の近似である」が有意味ならば)。
こうして、誤差を徐々に小さくしていくにつれ、科学は自然により近似し、誤差が無視できるほど小さくなれば「科学と自然の近似」は「科学と自然の対応」へと移行し得る。
つまり、「科学は自然の近似である」という科学観は、「科学は自然と対応する」すなわち「(自然と対応する)真理としての科学」という科学観と親和的(より正確には連続的に移行可能)であることが示されたと思う(多分)。


これが、はじめに書いたエントリーのより詳細な意味合いである(はじめからここまで書いた方がよかったのかな?)。


繰り返しになりますが、「自然は実在する」という自然観・世界観は決して奇異なものではない。
というより、(少なくとも)科学者にとってはあまりにも自明で、それゆえ改めて述べるのも躊躇われるほどであろう(むしろ、このような自然観・世界観を持たない科学者がいたらそっちの方が奇異だろう)。
この自然観・世界観抜きには科学という営みが成立しない、と言ってもいいほどである。


しかし、一応念のために述べておくと。
科学という営みが実在論的な前提抜きには成り立ち難いからと言って、全ての人が実在論的な前提に立たなければ(従って「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観を有さなければ)ならないわけではない(科学教育においては実在論的な前提に立たざるを得ないだろうが)。


さて、ここからは本筋とは直接は関係ないのですが。
「科学は自然の近似である」的な(したがって僕流に言えば「真理の対応説」に則った)科学観に基づかない科学論の一つに、クーンのパラダイム論が挙げられるだろう。
一応、念のために断っておきますと、現在の僕はパラダイム論には与しない。
ここで敢えてパラダイム論を取り上げるのは、「真理の対応説」に則らない科学論の象徴だと思えるからだ(しかも人口に膾炙している)。
まぁ、パラダイム論ではなくても、いわゆる概念枠相対主義的な科学観である。


まず、クーンのパラダイム論、科学革命論について簡単に述べますと。
特定のパラダイム(科学の大枠を決定する指針、くらいかな?)に則った科学的営為(通常科学)がある。
科学的探究が進むにつれ、(パラダイム内で)科学理論は徐々に修正を受けるが、やがて通常の修正では対応しきれなくなる事態に直面する。
その時にパラダイムの変更を余儀なくされ、全く別の科学理論が形成される(科学革命)。
ま、大雑把過ぎて我ながら恥ずかしいですが。


さて、ここでパラダイムAに則った科学理論をα、パラダイムBに則った科学理論をβとすると。
問題は、αとβの関係である。
クーン流のパラダイム論に依拠すれば、αとβの優劣、より具体的にはαとβのどちらがより自然に近似しているのかを論じることはできない。
というのも、パラダイムとは世界という実在を映し出す鏡(ないしフィルター)というメタファーではないからだ(むしろパラダイムごとに世界が存在するという観念論的な概念である)。
つまり、「世界という実在が存在し、パラダイムごとに異なる相貌を見せる」、という意味合いではなく、「世界そのものがパラダイムごとに異なる」、という意味合いを有している(パラダイムの違いは端的に世界の違いを表す、ということだ)。
パラダイムの違い=世界の違い」、を象徴するタームが「共約(ないし通約)不可能性」である。
これは、例えば同じ「電子」という言葉を用いても、パラダイムが違えばもはや対象も異なる(それゆえ共約不可能である)、という意味合いで用いられる。
その意味で、パラダイム実在論的概念というよりは、きわめて観念色の強い概念と言ってよいだろう。


そして、パラダイム論的な科学観からすれば、(特定のパラダイムに依拠する)科学理論の優劣を論じること(従って自然との近似を云々すること)はナンセンスとなってしまう。
というのも、それは世界そのものの優劣(や近似)を云々することと等しいのだから。
もっとも、確か後年クーンは共約不可能性という概念を放棄したと記憶しているが…
まぁ、それはそれとして。
クーン流のパラダイム論は、少なくとも実在論的な科学観ではない。
それゆえ、パラダイム論に依拠するなら、「自然は科学の近似である」はそもそも意味を有さない。



ま、パラダイム論は幾分余談的でしたが、取り敢えずは「自然は科学の近似である」が実在論を前提とし、真理の対応説とそれゆえ「(自然と対応する)真理としての科学」という科学観と親和的である(より正確には連続的に移行可能である)ことが示されたと思う。


えっ?
実在論に依拠するでもなく、パラダイム論にも拠らず、quine10、お前はどんな科学観を有しているのだ?」ですか?
それはおいおい。