「事実との対応」観念に対する内在的批判


えー、先日のエントリーは、「『事実との対応』こそが、言明が真であるかの決定因子なのだ、エッヘン!」という言明の真理値(真か偽か)に訴える、というややアクロバティックな(?)「事実との対応」観念批判でした。
もちろん、言明の真理性を「事実との対応」に求める人は、「『事実との対応』こそが、言明の真偽を決定する」という言明の真偽を(それゆえ、この言明の対応すべき事実を)示す必要があります。
それができなければ、「真偽不明の命題」にコミットする教条主義者の誹りを免れ得ません。


まぁ、これは本日のお題ではないので、これ以上は言及しません。
ただし、「事実との対応」が望み薄(絶望的)だからといって、「自然との近似」へと退却するのであれば、それは思考停止に他なりません。
「事実との対応」観念が不毛であるとすれば、その一バリエーションたる「自然との近似」もまた不毛である他ありません。


少し(?)、わき道にずれました。


ここでは、「事実との対応」観念に対する、より根本的(内在的)批判を試みてみたい。


その前に、「(言明の)事実との対応」という観念は、近代哲学(認識論)の問題意識の変奏に過ぎないとも言えます。
その近代哲学の問題意識とは簡単に言えば、「我々の主観はいかに正確に客観を捉える事が出来るのか?」ということであります。
「そのような問題意識がいかに発生したか?」について、少し考えてみましょう(幾分?創作めいています)。


私たち個々人は各々の主観をもって生活しています。
そしてその主観は、ある時は一致するように見え、またあるときはお互い相容れないように思われます。
しかし、私たちが社会生活を営むとすれば、最低限一致する認識(例えば何が社会的悪か)が必要に思われます。
そのような、最低限の認識の一致すらない状況で、安定的な社会生活を営むのは困難に思われるでしょう。
逆に、社会が不安定化したとき、社会的安定の基盤としての「認識の一致」的なものを希求するするのは自然な感情と申せましょう(その希求に答えるのが一般には宗教でしょうが、宗教の権威が失墜していた)。


時代の条件として、ニュートン物理学の確立により、自然の客観的姿が明らかになりつつある、と信じられていました。
つまり、私たちの主観を越えたところに、(主観とは独立の)客観という確固たる存在がある、との信憑が優勢になりつつあったと申せましょう。


つまり、一方で社会の不安定さが、主観の頼りなさを否応なく突き付け、また一方で自然科学の確立により、客観が揺るぎないものとして人々に信じられるようになった。
しかし、もし主観がてんでバラバラのものだとしたら、どうして客観世界を描く(つまり自然科学を確立する)ことができるだろうか?
主観は一見バラバラに見えても、それが正当な手続き(?)を経れば、唯一の客観に到達することができる、つまり主観と客観を一致させることができる(に違いない)。
これが認識論の問題設定でありました。
そして、その問題設定の先には、主観と客観の一致が保証できれば、(客観的な)理想的な社会の在り方を決定できる、という願望があったのではないだろうか?


ここでは認識論的問題設定の是非については言及しません。
ただ、「主観と客観の一致」という認識論的問題意識が、「(言明の)事実との対応」という観念とパラレルである、ということを確認するにとどめます。


さて、簡単におさらいします。


1.「(言明の)事実との対応」という観念は、「主観と客観の一致」という認識論的問題意識とパラレルである
2.「主観と客観の一致」という認識論的問題意識は、自然科学の確立という客観への信憑と、社会的不安定という主観の頼りなさをその成立の条件とした(多分)
3.認識論的問題意識の先には、理想的社会の希求(ユートピア願望)があるのではないか?


3はちょっと余分な気もしますが…まぁ、いいか