還元主義と全体論 ミラーニューロンから考えてみる

久々の更新になってしまった…
どうも今一つ更新する気になれなかったわけですが(FC2の方はボチボチ更新していたわけですが)
ぶっちゃけて言えば、ネタ切れ、ですね(ぶっちゃけ過ぎか?)。
ブログ徘徊中に見つけた次のエントリーについて少し言及してみましょうか。
小飼弾氏のブログから、共感のファームウェア - 書評 - ミラーニューロンの発見についてだ。
ここしばらくやたら哲学チックな話が続き、その流れを突如断ち切るのもアレなんで、そんな観点から…


さて、僕もミラーニューロンの話については、かる〜く読んだことがある程度ですが…
一応Wikipediaミラーニューロンにリンクを張っておきましょうか。
ここでミラーニューロンを取り上げるのは、還元主義的思考と全体論的思考の対比についての、よい例示になると考えるからである。


「脳は、互いにシナプスで結合した脳細胞の集まりが、全体として機能する(その結果人間の様々な認知機能・行動を体現する)」ということは、多分人間の認知を研究する人々の大部分が認める前提だろう。
もちろんこのことは、脳の特定の領域が認知機能の特定の領域(例えば言語、情動、意思決定)を担う(脳の機能分化)ことを否定するものではない(その特定領域すら多数の脳神経細胞の集合として機能するのは変わらない)。
もう一点付け加えると、機能分化した脳にもある程度の可塑性はあるらしい(脳卒中からのリハビリによる回復は、脳の可塑性を説明するだろう)。
脳が全体として機能している、という仮説は、脳細胞が一日数万の単位で死んでいる、という事実とも整合的である(特定の神経細胞が決定的に重要な機能を有しているなら、その細胞が死んだ途端に深刻な障害が現れるだろう)。


つまり、脳という存在(実在)は、個々の脳神経が互いに結び付き一つの神経集団を形成することで、一つの機能を有する。
それがさらに集まって脳という存在となり、それが全体として人間の行動を組織する機能する。
脳の各部分にはある程度特化した機能があるが、しかしそこに固定されているのではなく、ある程度の可塑性を有する。
このような考え方を、ここでは「脳機能の全体論」と呼ぶことにする。


さて、ここでちょっと話題を変えて、言語について考えてみたい。
論理実証主義の言語観は次のようなものであった。
単語は世界の要素と1対1に対応している。
さらには、単語の結びつきとしての文は、要素の結びつきとしての事態と対応する(事態と対応した文が真なる文とされる)。
従って、真なる言明の総和は世界と対応している(真なる言明の代表が科学的言明である)。
このことはまた逆に世界で起こっている事態は、各要素へと分解(還元)できる、という信念とも一体である。
つまり、論理実証主義的言語観の一つの核に還元主義がある(クワインが二つのドグマの一つとして批判したのが還元主義であった)。


それに対して全体論ホーリズム)とは、単語の意味は一つの言語システムの中で(他の諸単語との意味の対比において)特定される、と表現されるだろう。
要するに、単語の意味は、事物との対応ではなく、言語システムにおける位置づけにおいて特定されると言うことだ(このことは、私たちが言語を経験的に習得するということと矛盾するものではない)。
この辺りはソシュールの「言語は差異の体系である」というテーゼとも親和的だろう。
文章の意味も、そのように特定される単語の意味の総体(と統語規則)によるだけでなく、その文が置かれる文脈に依存する(こちらのエントリーで述べたように、その依存の程度には濃淡があるだろうが)。


ではここでミラーニューロンについて考えてみよう。
ただし、僕が『ミラーニューロンの発見』を読んでいないことは強調しておかなければならないだろう(読むとエントリーを書き換えることになるかも知れません)。
上記の小飼弾氏のエントリーから一部引用

そう。共感。我々がどう共感しているのか、いやそもそもなぜ共感できるかという問題の糸口が、ここ(ミラーニューロン:引用者注)にある。

それではミラーニューロンとは何か。一言でいうと共感の神経細胞である。

なぜ我々が社会を構成できるのか。なぜ我々が本を読めるのか。なぜ私が痛いとあなたも痛くなるのか。共感という情動なしには、それは不可能であり、そしてミラーニューロンがあるおかげで、我々は「考えなく」ても「共に」「感じる」ことが出来る。


この引用部分を読んで、僕が何を言いたいか、わかる人もいるかもしれませんね。
僕が言いたいのは、この引用部分において、共感という人間(に恐らくは特有)の認知機能がミラーニューロンという特定の神経細胞に還元されている、ということだ(さらには社会そのものが共感という能力に、したがってミラーニューロンの存在に還元されている)。
ここには先に述べた還元主義という思想的立場が象徴的に表れている(還元主義というと言い過ぎのような気もするが…基礎付け主義?)。
もちろん、それを「還元主義だから間違いだ」と断ずることはできない。
もし批判するのであれば、反証例を実証的に積み上げて批判していくしかない(それが批判的合理主義の立場である)。
もっとも、僕にはその科学的な方法を利用することはできないのだが(従って、ここでは還元主義的思考が現れている、という事実を指摘するのみにとどめるしかない)。


そして僕には、昨今の脳科学ブーム自体にもある種の還元主義的ドグマが現れているようにも思われるのだが…
複雑な社会現象も脳内過程に還元できる、みたいな(僕の誤解かなぁ?)。
養老孟司氏の『唯脳論』がその走りでしょうか。
ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』はその点、科学者らしく(養老氏が科学者でない、と言いたいわけでもないのだが)あくまでも科学的に分かった事象のみに焦点を当てている印象だ(あくまでも個人的な印象)。


しかし、先の「脳機能の全体論」という立場に立脚するなら、共感という機能のミラーニューロンという特定の神経細胞への還元には疑問符がつけられるかもしれないし、また社会現象の脳内過程への還元にも同様に疑問符がつけられるだろう(ゲーム脳批判もブーム(?)のようだが、ゲーム脳的な考えもある種の還元主義に陥っているかもしれない)。


共感については後でもう少し述べたい。