整合性と対応について(あるいは真理について)

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「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ
古臭い論の展開をしていると。
まぁ、それを否定はしません。
僕は所詮は素人の戯言を述べているに過ぎませんし、である以上は最先端的な話など端っから望むべくもないからであります(最先端の話をしたいのであれば、口をつぐむ以外にはない)。
まぁ、Hatenaにはプロ(やその予備軍)も多いだろうから、素人の不適切な言説に対しては、適切なツッコミが入るのではないだろうか?
とまぁ、自分の都合の良いように思い込んでおこう。


で、本題の整合性と対応についてですが(科学について(あるいは真理について)を参照)。
一応念のために述べておくと、僕は「対応には意味がない」とか「対応という概念が間違っている」とか「対応など幻想である」とか言いたいわけではありません(実際、そのようには述べていないと思います)。
そうではなく、特定の言説を「物事との対応」という観点から正当化しようとする言説(しばしば自らを真理と称する)を批判しようとしているわけです。
対応はある意味原初的な概念であり、それゆえ(特に自然)科学においては多くの場合対応概念は素朴に前提されている(だろう)し、まぁそれで深刻な事態に陥るわけでもない(それゆえ対応への信憑がますます深まる、という側面もあるだろう)。


論理実証主義は、対応概念を素朴に前提するどころか、それをグロテスクなまでに肥大化させ、それによって科学を正当化しようとした(が、結局は壮大な失敗に終わった)。
私見によれば、それによって対応概念は真理からプラグマティックな方向へとシフトせざるを得なくなった(そしてこのシフトは決定的で、かつ不可逆なものだと思っている)。
対応概念がプラグマティックな方向へとシフトする、ということは対応概念が原初的なものではなく、結果として現れるものだ、と取り敢えずは言っておこう。
論理実証主義の登場がなければ、ひょっとすると対応への信憑はいまだに根強いものだったのかもしれない(まぁ、それでも科学哲学の文脈を離れれば、対応は素朴に前提されているようには思われるが)。


では、現時点での僕が、整合性と対応の関係をどのように考えているか、ですが…
僕はデイヴィドソン流の「整合性ゆえの対応(整合性が対応を生む)」を支持したい。
というか、クワイン流のホーリズムを維持しつつ対応を論じるとしたらこれしかないような気がする。
例えば、「1+1=2」、「雪は白い」、「地球は太陽の周りを回っている」、は実際にそのような事実と対応しているがゆえに真である、と言いたくなる(し、それが間違ってるとも言えない)。
しかし、それが対応していると言えるのは、「1+1=2」という式が私たちが実際に生活をするうえで深刻な矛盾に出会わない(一貫ないし整合している)からであるし、「雪」や「白い」という言葉を使う文脈と「雪が白い」という文が深刻な不整合に出会わない(一貫ないし整合している)からであるし、「地球が太陽の周りを回っている」という文章を採用した方が、天文の観察や物理理論とうまく整合するからであります(科学理論の場合は理論のシンプルさ、という面もあると思われる)。


とは言え、(特に自然)科学は実在論ないし唯物論的な前提なくしては研究自体が成り立たないところもあります(実在論唯物論を並列に述べるのは哲学的にはうんちゃらかんちゃら、という議論は脇に置きます)。
したがって、どこかのエントリーで述べましたが、大部分の科学者(科学哲学的な問題意識を有していない科学者)が真理の対応説を、したがって「真理としての科学」なる科学観を持つのもやむを得ないと思いますし、別にそれを修正しなければならない、とも思いません(なるべく多くの科学者に科学哲学的な問題意識を有してほしい、とは思いますが)。
しかし、それを科学者サークル外にまで持ち込んで布教しようとするなら話は別でしょう。
そのような動きがもし出てくるなら、科学哲学の立場から健全なリアクションが出てこなければならない、と僕は思う(その現実の動きは実に微々たるもんだと思うが)。
別に僕がその動きを補完しようなどと思い上がっているわけでもありません(所詮は素人の戯言であります)。
しかし、もし(科学者が素朴に前提しているであろう)対応概念を少しでも相対化できたとしたら、それに勝る喜びはありません。


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