事実との対応について

いま、ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』を読んでいます。
自分が一体どれほどを理解してるか、全く持って自信はありませんが(2割も理解できているかどうか・・・)、とにかく読んでいます。
しかしそれでも、「事実との対応」という真理概念がアメリカの分析哲学の中でも小さくない位置を占めている(らしい)ことは十分に読み取れます。
大分前に、「事実との対応」に関しては書いたのですが、少し違った視点から述べてみたい。


以前のエントリーで、「科学は自然の近似である」というスローガンに対する批判的検討「自然との対応」と「自然との近似」の親和性について述べましたので、よかったらご参考に。


さて、「事実との対応」としての真理概念の検討に入る前に・・・


一体どうして「事実との対応」が問題になるのか、問題にならざるを得ないのか、その辺りを簡単に確認しておきたい。


さて、現代に住まう私たちは、日常様々な概念装置を用いている(少なくとも社会の中にそれらを駆使している人々がいる)。
というか、そのような概念装置抜きに現代生活を送ることは不可能と断言してよい。
そして、その代表的なものが科学理論である。


コンピュータを設計・使用するにしろ、天体の動きを予測するにしろ、あるいは医者が患者を治療するにしろ、そこには通常自然科学(と呼ばれる概念装置)が何らかの仕方で関わっている。
あるいは、経済や社会の動きを記述し、予測する社会科学(経済学、政治学など)も、代表的な概念装置であろう。


何らかの問題に対処するに当たって、これらの概念装置を使ってうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。
そして、現在残っている概念装置の多くは、(それを使用することで)他のものよりもうまくいくことの多いものであるだろう(うまくいかない概念装置は、単に切り捨てられるだろう)。
その意味で、現在ある概念装置は、(生物が進化するように)人間社会の要求によりうまく応えられるように進化したもの、と言えるだろう(科学理論はミームの一種である、と言ってもよい)。


さて、人間は常に「なぜ(Why)?」を問う存在である。
そして、「なぜ(Why)?」という問いが、人間の知的営みを推進する力となったのは事実だろう(恐らく、人間以外の知的生命体が存在するとすれば、それもまた「なぜ(Why)?」という問いを発する存在だろう)。
しかし、「なぜ(Why)?」という問いが、人を出口のない迷宮にいざなってしまうこともままある(ヴィトゲンシュタインによれば、哲学の大部分はこれに該当するのだが・・・)
もっとも、このことは人間の持つ様々な特徴にはいい面と悪い面がある、という極々ジョーシキ的な見解を表しているに過ぎないのだが・・・


さて、「なぜ(Why)?」を発する存在が、様々に機能する概念装置(例えば科学理論)を目の前にして、「この科学理論はなぜこんなにうまくいくのだろうか?」という問いを発するのは、当然過ぎるとも言えましょう(その問いを発しないでいることのほうが難しいでしょう)。
そして、科学教育を通じて因果的思考に慣れ親しんだ私たちが、因果的な枠組みでこの問いに答えるのもまた当然過ぎることでしょう(より正確には、因果的な枠組みで応えることが真に正しい答えを導くものだ。と私たちの多くは思っている)。


では、因果的な枠組みで、上記の問い「この科学理論はなぜこんなにうまくいくのだろうか?」に答えようとすればどうなるでしょうか?
「それは、この科学理論が事実と対応しているからである(事実を正確に言い当てているからである)」という答え以外には考えにくい。


では、本日のまとめ。


1.私たちの元には、現実にうまく機能する(その機能の度合いの差はあるだろうが)様々な概念装置がある
2.私たち人間は、常に「なぜ(Why)?」という問いを発してきた(一方でそれが知的営みを推進し、他方で答えのない問いで人々を苦しめることになった)
3.そのような状況下で、人はほぼ必然的に、「なぜこの概念装置はうまく機能するのか?」という問いを発する
4.その問いに対する、因果的な枠組みでの答え(多くの人はそれを欲している)が、「事実と対応するゆえ」であった


その意味で、「事実との対応」という観念は、人々の持つ「自然」ゆえに当然発生する宿命を帯びていたとも言えるだろう。
もちろん、だから「事実との対応」という観念が、「正しい」ものであるわけでもない(この場合の「正しい」の内実は措く)。


その辺りをエントリーを改めて論じてみたい。