「実在性」と「真の値」について 追記しました(4/29)

なんか、πの「実在性」について僕が述べている、と思いこんで(?)トラックバックを送ってくださる方がいるのですが…
まぁ、トラックバックを頂けるのは嬉しいので邪険にするのもなんですが。


一応、確認のために述べておきますと、本シリーズ(科学について(あるいは真理について)「近似」と「モデル化」についてπの「真の値」について)において、僕が「実在性」という言葉を用いたことはありません(一応読み返してみました)。
さすがに、「実在性」という言葉を安易に用いると泥沼に入り込む恐れあり、という自覚くらいはありますので。
「実在性」について言えば、僕自身は「何が実在するかは実在性の定義に大きく依存しているため、実在性を定義することなく何かの実在について云々することはできない」、という立場であります(その実在性の定義が大問題なのですけどね)。


一応「好意の原理」を発動して考えてみますに…(僕っていい人?)
πの「真の値」という表現はしましたので、ひょっとすること「πの『真の値』という言葉を使うってことは、quine10はπの『実在性』を素朴に前提してやがるな」と考えていらっしゃるのかも知れません(違うのかな?)。
僕的には、そう考えたい気持ちは理解できなくはありません(同意はしませんが)。
「ある数の『真の値』にコミットする、ということはその数の『実在』にコミットしているに違いない」ということなのでしょう(あくまでも好意の原理を発動して解釈すれば)。


しかし、挑発的に言えば、「ある数(例えばπ)が『真の値』を有する」ということと、「その数が『実在』する」ということは全く別の事柄です(繰り返しますと、何が実在するかは、「実在性」の定義に依存します)。


例えば、光速が何らかの「真の値」を有する、と考えるからといって光速が実在する、と考えるのは奇妙です。
と言いますのも、速度とは単位時間にすすむ距離で定義されるものだからです(距離の定義、時間の定義でその値はいくらでも可変です)。
にもかかわらず、どのような時間の定義、距離の定義を用いようと、光速が「(定義ごとの)真の値」を有すると考えることは合理的です。
この場合、敢えて実在性にコミットするとしたら、「ある一定の速度(光速の『真の値』)を有する光の実在」に対してということになります。


あるいは、スコラ哲学のように「天使の真の定義」を考えるからといって、「天使の実在」にコミットしていると考えるのも少々(?)奇妙です。
同様に、πの「真の値」に言及することと、πの「実在性」にコミットすることの違いを認識して頂ければ、と存じます。


蛇足ながら付け加えておきますと、「真の値」と「実在性」を同一視する思考もまた、真理の対応説に依存していると言えるでしょう(πの「真の値」は実在に対応しているはずだ、あるいはπの「真の値」に言及するということはそれと対応するπの実在性にコミットしているはずだ、というわけです)。
しかし、これまで述べてきたように、「真の値」と「実在性」を同一視する思考は、(真理の対応説を素朴に前提した)思い込みに過ぎないと言えるでしょう。
ところで僕自身は、別に真理の対応説にはコミットしておりませんから、πの「真の値」を云々するからと言って、それがπの「実在性」に関連づけられるとは全く考えておりません。


以上述べたことに対して、あくまでも「いや、『真の値』に言及するってことは、実在にコミットすることになるのだ(そしてそれは間違いだ)」と言い張るのだとすれば(それは全然構わないのですが)、「πは3.14で近似できる」という表現をπの「真の値」に言及することなく、有意味に説明して頂く必要がありそうです。
あるいは、光速や天使の場合は違うが、πの場合は「真の値」に言及することは、実在にコミットすることになるのだ、ということであれば、なぜπの場合はそう言えるのかを説明して頂く必要がありそうです。


とりあえずは「真の値」と「実在性」については以上です。
トラックバックについては後ほど追記で。

追記(4/29) トラックバックは追記を読んでくれてからでもいいのに…

頂いたトラックバック続 πの実在性についてです。

πの「「真の値」について」では、πの真の値が実在すると考える理由をせっせと探していらっしゃいます。それは的を外しています(一部改変)。

「πの真の値(という表現)の有意味性」と「πの真の値の実在性」の違いを認識していただければ、と存じます(僕自身がコミットするのは、取り敢えずは前者です)。「取り敢えずは」の意味は、今後述べていくことになると思います。
ということで、「的を外すも何も、そんな的など狙っていない(そんな的があるのかどうかも知らない)」ということになるでしょうか?
というわけで、

科学について(あるいは真理について)の補強にはなっていません(一部改変)。

「補強」というよりは、「誤解を解く試み」いった方が正確な気がします(その試みは失敗に終わったと言わざるを得ませんが)。