「テクストの文脈依存性」と「文脈のテクスト依存性」について 多少の追記あり
僕の投じた一石が、思わぬ(?)波紋を広げてしまったのかも知れませんが…
すでに収束気味?
だとしたら、新たな波紋を広げることになるのかも知れませんが…
前置きはこれくらいにして。
「テクストの意味はそれが置かれた文脈に依存する」という表現には、おそらく少しでも哲学的な話を齧った人ならば同意するだろう(多分)。
それは、「テクストの意味は、テクストを構成する単語の意味(および統語規則)によって特定される」という原子論的意味論とでもいうべき言語観に対するアンチテーゼである(ホーリスティック=全体論的な言語観と言い換えてもよい)。
ちなみに、原子論的意味論は、私見ではヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に最も象徴的に表れている。
論理実証主義はそのアイデアを極限まで推し進め、科学を正当化しようと試みた(が、残念ながら失敗に終わったと言わざるを得ない)。
その後のヴィトゲンシュタインが、原子論的意味論をむしろ解体するようにその哲学的思索を進めていったことは示唆的である(ヴィトゲンシュタインの哲学遍歴こそが哲学の教科書とでも言えるように思える)。
ちなみに言えば、原子論的意味論は「真理の対応説」あるいは「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観と親和的であります。
以下の論考ではテクストを比較的小さな文の塊(一文ないし数個の文)として想定する(一般にはある本一冊がテクストと見なされることも多い)。
ガダマーかな?、ある(文学の)解釈理論がある。*1
文学作品においては、個々の文(テクスト)が徐々に物語(文脈)を形成する。
そして、私たちは二つの作業を交錯させながら文学を読み進める。
その二つの作業とは次の通りである。
1.新たに出会うテクストを、(そこまで読み進めることによって)ある程度形成された物語(文脈)の中に位置づける。
2.新たに出会ったテクストによって、そこまで形成された物語(文脈)に新たな視点が加わる(文脈自体が変化を被る)。
もう少し砕けた(?)表現で言い直しますと。
物語は、取り敢えずは読み進めたところまでのテクストの総体であり、それが次に出会うテクストの解釈の枠組み(すなわち文脈)を形成する。
その意味で「テクストの文脈依存性」は正しい。
また、「文脈のテクスト依存性」もこの意味で妥当であろう(文脈は個々のテクストの総体として現れる)。
しかし、文脈はテクストの解釈の枠組みを提供するのみならず、常に新たなテクストによって文脈自体が変更を被る(ないし特定のテクストにより文脈が強く規定される)こともあり得る。
つまり、テクストと文脈が相互作用をしながら、一つの物語を形成する(弁証法チック?)。
それが、私たちがテクスト(特に文学作品)を読み進めるうちに経験する解釈の、大雑把な描写であろう。
文学作品で言えば、文脈には「文学史」的な歴史的文脈、「文芸批評」的な同時代的文脈、さらにはより広い社会的文脈(プロレタリア文学やロスジェネ論壇を生み出す社会構造的な文脈)も解釈の枠組みを提供する文脈として考えられる(文学愛好家はこのような文脈に通じているのだろう)。
まぁ、文学作品をほとんど全く読まない僕が文学を語るのもおこがましいにも程がありますが…
ドストエフスキーの『罪と罰』で言いますと(ずいぶん昔に読んだのでほとんど忘れてしまっていますが)。
ラスコーリニコフがソーニャの前にひざまづいて地面(足元?)にキスするという場面があったと記憶している。
この場面は、物語の中でその行為の意味合いが付与されると同時に(あるいはそれ以上に)、物語それ自体の相貌を強く規定している(少なくとも僕はそのように受け止めた)。
もう少し言えば、この場面が物語を逆照射し、それまでとは全く別の(というと言い過ぎか)相貌を際立たせるということだ(あるいは、何気ないエピソードに強烈な意味が付与される)。
おそらく、優れた(人の心を打つ)文学作品とは、このように一瞬にして物語に新たな意味づけを与えるものなのだろう(特定のテクストが物語をひっくり返す)。
これが僕のいう「文脈のテクスト依存性(「テクストの文脈規定性」といった方が妥当かな?)」である。
さて、テクストには文脈に依存的なものから、文脈から相対的に独立しているものまであるだろう(あらゆるテクストはそのスペクトルのうちにある)。
同様に、文脈を強く規定するものから、文脈のあり方には大きな影響を与えないものまであるだろう。
もちろん、特定のテクストがどの程度文脈に依存するか、あるいは文脈を規定するか、客観的な指標を与えることはおそらくできない(できることは、そのあり様を説得的に記述するくらいである)。
しかし、いくつかのポイントは指摘できると思う。
例えば、いわゆる「スローガン」は、文脈を強く規定する(少なくともそれが意図された)表現である、とは言えるだろう。
「新自由主義政策が格差を広げた」というスローガンは、その主張の妥当性はともかく、格差が広がった現実(これ自体妥当性の検討の余地はあるが)を新自由主義政策の結果として(格差を新自由主義という社会的文脈の元に)見るように促す。
あるいは、「現在の日本は戦前への回帰を進めている」というスローガンは、現在の日本社会で進んでいる事態(政策的・社会的変化)を戦前の全体主義体制への回帰として(全体主義体制への回帰という文脈の元に)見るように促す(その主張の妥当性はともかく)。
つまり、スローガンは「文脈を強く規定する(ことが少なくとも意図された)表現だ」と言うことだ。
そして、スローガンはそれゆえ、(比較的)文脈から独立した表現が選ばれるだろう(文脈に依存したスローガンはスローガンとして役立たずである)。
さて、何を言いたいかといいますと…
例の「科学は自然の近似である」ですね(こちらの表現に関しては科学について(あるいは真理について)や「近似」と「モデル化」についてを参照)。
さて、この表現は文脈依存的(文脈を特定しなければ意味を特定しづらい)でありましょうか?
この中で「自然」は文脈に比較的依存していると言えるかも知れませんが、「科学を云々する文脈での自然」であることは一目瞭然でありましょう。
つまり、「科学は自然の近似である」という文脈から(比較的)独立した表現をスローガンとして用いるのであれば、文脈に強く依存した意味を付与するのは間違っている(スローガンとして機能しない)。
逆に文脈に強く依存した表現であるとしたら、そのような表現をスローガンとして用いるのも間違っている。
本当に言いたいことは…
真理の対応説、「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観、と親和性の高い「科学は自然の近似である」なるスローガンを提示しておいて、文脈云々いうことはどうなのよ?と(むしろそのようなものとして科学を見るように意図したスローガンではないの?と)。
また、波紋を広げてしまうかな?
*1:昔『ガダマーの世界―解釈学の射程』で読んだ記憶が…