科学について(あるいは真理について)

えー、FC2のブログでは疑似科学に関することを取り上げて論じたこともあるわけですが(疑似科学批判ではなく)、当ブログでは疑似科学を取り上げる予定は当面ありません(未来永劫ない、とも言いませんが)。
最近、疑似科学批判(あるいは疑似科学批判批判、さらには疑似科学批判批判批判、and more…)に関わるブログ間のやり取りを眺めていて、思うところがあるので述べてみよう。
ただし、疑似科学に関するものではなく、科学に関するものであるが。
もちろん、疑似科学批判は主に科学的見地からなされる以上、科学に関することがらが疑似科学と全く無関係と断ずることも出来ないのだが。
言いたいことは、僕自身はこの論考を疑似科学(ないしは疑似科学批判)と絡めて論じるつもりはない、ということである(他の誰かがこの論考と疑似科学を絡めて論じることを阻む意思は全くない)。


では、本題へ。
えー、とある疑似科学批判派(と思われる)のブログのコメント欄で以下の表現を見つけた。
「科学は自然の近似である」
「えっ?」と。
「マジで言ってんの?」と。
軽いショックを受けつつ読んだのですが、そのコメント欄では上記の表現に対して何のツッコミも見られなかった(ざっと読んだところ)。
少なくとも、そのブログエントリーでコメントを残す人の比率で言えば、疑似科学批判派>>疑似科学批判批判派であった。
ということは、疑似科学批判派の科学観は、「科学は自然の近似である」と大きく違わないのだろうか?
それとも、「科学は自然の近似である」はあまりにトンデモだから取り上げることもバカバカしいということだろうか?
この辺りは当人達に確認すべきでしょうね。


以下では、「科学は自然の近似である」という科学観が疑似科学批判派に共有されているという前提で考察を進めていく(ま、別に共有されてなくても変わりませんが)。


ちょっと回り道をすることになりますが…
哲学的に言えば、真理に関する説には少なくとも二通りある。
真理の対応説真理の整合説である。
ジョーシキにマッチしているのは前者の真理観で、科学哲学的な疑問を発したことのない科学者(やその予備軍)の持つ真理観であると言い切ってよいと思います。
真理の対応説とは、簡単に言えば、「言説は、それが言い表す事象と『対応』している場合に真である」という説である。
例えば、「雪が白い」は雪が白いという事実に対応していれば真である(そして、通常は雪は白いので「雪は白い」は真理であると考えられる)。
科学一般に敷衍すれば、「科学(理論)は、それが言い表す自然現象に対応していれば真である」ということになるでしょう(そして、自然科学は様々な自然現象をうまく説明し、予測し、様々な技術として体現されるがゆえに、自然現象に「対応」していると見なされ、それゆえに真理であると考えられる)。
このように見れば、真理の対応説がジョーシキにマッチしている、ということが理解できるでしょう(というか、科学者が真理の対応説を採らないことの方が難しいかもしれません)。


以上を踏まえれば、先の「科学とは自然の近似である」は、真理の対応説を前提としていることが見て取れるでしょう。
巧妙に(?)「近似」という言葉が使用されていますが、「近似」とはそもそも「一致」ということが(少なくとも理念的には)想定されなければ意味を持ちません(ある一定の誤差があるために「近似」と表現される)。
二つのものが一致する可能性が想定されなければ、近似するもヘッタクレもありません(近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ)。
そして、「近似」は、誤差が小さくなればなるほど「一致」へと近づくわけです。
誤差が無視できるほど小さくなれば、「一致」と呼んで差し支えない。
そして(「科学と自然の近似の誤差」が無視できるほど小さくなり)科学と自然が一致するならば、「科学と自然は対応している」となる(=真理の対応説)。


しかし、真理の対応説(という素朴な真理観)を多くの科学者が採用するからといって、真理の対応説が正しいとはなりません(多数決が正しさを担保するわけではない、ということはほとんどの科学者や疑似科学批判派が同意してくれるでしょう)し、そもそも真理の対応説がどれほどの意味を持つかを考えてみるべきでしょう。


それにしても、疑似科学を云々する人(少なくともブログ等で疑似科学批判を行う人)は、「科学とは何ぞや?」という科学哲学的な問いを有しているもんだと思う(そう思いたい)。
それが「科学とは自然の近似である」ですかそうですか…
科学をどう定義するかは、科学哲学の根幹に関わることでしょうから、僕のような素人には簡単には出来ませんが。
しかし、科学とは、言語や数学といったシンボル操作によって自然現象を記述する試み、ということは最低限の条件として言えそうな気がします。*1
哲学っぽく、科学とはある種の言語ゲームである、と言えばさらに分かりやすいかもしれません。


では、ある種のシンボル操作ないしは言語ゲーム(である科学)が自然と「対応」ないし「近似」しているとは一体どういうことだろうか?
一般に、近似とは、二つの事柄が備える性質が同等の場合に意味を有する。
例えば、「πの近似は3(あるいは3.14、さらには3.14159…)である」と述べる場合、πはある種の数値を取るということが前提である(それゆえ先の言葉は意味を持つ)。
「蟻の近似は3(あるいは3.14、さらには3.14159…)である」が全く意味をもたないのは、蟻はある種の数値ではないからだ(もちろん、蟻の体重や身長といったことに焦点を当てるなら、それはある種の数値を取ると言える)。


さて、自然とは言語や数字といったシンボル(操作)だろうか?
もし、シンボル(操作)と言えるなら、同じシンボル(操作)の一つである科学との近似を云々することには意味があるだろう(シュレーディンガー波動方程式ハイゼンベルクマトリックス理論は数学的には同値である、という風に)。
しかし、自然界の蟻や台風や地震や太陽や銀河やetc…は、決してシンボル(操作)ではない。
したがって、「科学とは自然の近似である」は、本来なら意味を持たないはずだが…


真理の対応説(という素朴な真理観)がいまだに大手を振るっているということなのだろうか?
真理の対応説を素朴に前提して猪突猛進した論理実証主義は、クワインらによって見るも無残に打ち砕かれたはずだが…(ま、論理実証主義の自爆的な側面の方が大きいかもしれないが…)
だとしたら、クワイン(さらに辿ればヴィトゲンシュタイン)以降の分析哲学の影響は微々たるものなんだろうなぁ…
頑張れ、分析哲学者!


最後は大分本題からはずれてしまったかな?

*1:僕の理解では、シンボル(操作)とは人間という種に特有の認知機能であり、その意味では自然現象の一つと言えるが、それを認めるとあらゆる社会現象が自然となってしまい、逆に自然の意味が失われてしまう。