専門知に対する民主主義の優先

哲学チックな話が続いておりますが…(ブックマークが何気に嬉しい)


えー、タイトルはリチャード・ローティの「哲学に対する民主主義の優先」(『連帯と自由の哲学』収録)をもじっています(タイトルでピンときた方はローティマニアでしょう)。
この論文でローティが何を訴えたかったかを僕なりにまとめますと…
ローティは哲学によって民主主義を基礎づけるということ(もっと言えば基礎づけとしての哲学一般)に対して懐疑的である(否定的であると言った方が良いかも?)。
ローティは基礎付け哲学者の代表選手をカントと見做しており、基礎付け主義者をしばしばカント主義者と呼ぶ(まあ、これは余談)。


例えば、ローティは哲学者としてのデリダハイデガーに対する好意をあっけらかんと語るが、それでも民主主義をデリダ哲学、ハイデガー哲学によって基礎づけようとはしない(ローティ流に言えば、「デリダハイデガーはアイロニカルだがリベラルではない」)。
あるいは、ローティはリベラルな哲学者としてハーバーマスを称揚するが、ハーバーマス哲学によって民主主義を基礎づけようともしない(「ハーバーマスはリベラルだがアイロニカルではない」)。
こうしてローティは、哲学と政治(民主主義)の分離を謳い、民主主義を特定の哲学(者)によって基礎づけることを放棄する。
そして僕はローティのこの態度に対して、100%の賛意を表明する。


民主主義は決して学問的に基礎づけられるものではない(民主主義を基礎づけるものがあるとすれば、政治を自分たちの手によって運営しようとする「市民の意思」以外にはあり得ない)。


さて、ローティが上記のスローガンを発したとき、念頭にあったのは「文化左翼」とローティが呼ぶ文芸サークル(と敢えて言う)である。ローティにしばしば言及する宮台は、文化左翼としてカルチュラルスタディーズやポストコロニアリズムを挙げる(宮台はカルスタ、ポスコロと揶揄的に呼ぶ)。
宮台の妥当性はともかく、文化左翼とは「文芸上の専門用語(ジャーゴン)を駆使して、民主主義や左翼的なあり方を難解に解説し、民主主義や左翼を基礎づけようとする哲学者・思想家達」と言えるだろう(もっと言えば、「これくらいのことが分からずに民主主義を語るな」、という言い方をしがちな人である)。
Hatenaにもたくさんいそうだが…(偏見?)


ローティ流に言えば、「世の中にあるのは、民主主義に対する感受性を涵養するのに有用な(有効な)様々な語りであり、そのうちのどれかに特権的な地位が与えられているわけではない(つまり、民主主義を語る様々な言説が同等に存在している(全てがone of them)のである)」、ということになるだろうか?
ハーバーマスの社会哲学もそのような(民主主義に対する感受性を広げる)テクストの一つに過ぎない(一方、デリダハイデガーはその目的にとっては役立たずである)。


同様に、ローティ流に「経済学に対する民主主義の優先」とも言ってよいだろう(経済学者は猛烈に反発しそうだが)。
昨今の金融危機は、経済合理性(と考えられるもの)を過度に追求した(政治運営に関わろうとする「市民の意思」を蔑ろにした)結果とも言えるのではないだろうか?(少なくともそのような視点は必要だと思う)
もっと言えば、経済学者の声が大きくなり(ノーベル経済学賞が権威付けをする?)、政策決定において経済合理性(効率性やコストカット)が優先された結果、市民社会的成熟が後回しにされた。
つまり、「民主主義に対して経済学(的合理性)が優先された結果」と見做してよいのではないだろうか?


政治とは価値選択である」(このスローガンは文脈依存的な表現ではありません)
つまり、政策に特定の経済的合理性や哲学的合理性が仮にあるとしても、それに先立つ市民的価値選択がなければ、そのような選択は正統化されない。
経済的合理性なるものが仮にあるとしても、それは常に市民によって選択された価値を体現するためのものでなければならない。
そして、私見によればグローバリズム新自由主義と呼ばれる昨今の政治・経済的な潮流は決して市民的価値を体現するものではなかった。


同様に、「科学に対する民主主義の優先」も言えるだろう。
もはや多言は要しないだろうが…
科学的に正しいものを私たちが選択するかどうかは分からない(科学的価値は価値選択に現れる価値の一つに過ぎない)。
疑似科学をバッシングし、疑似科学的なものを許さないという価値が仮に科学的価値だとして(違うのなら全然構わないが)。
そのような価値が、もし市民的価値と相容れないならば何の意味もない(少なくとも市民社会的には)。


こうして、冒頭のローティのスローガンをより一般化して「専門知に対する民主主義の優先」ということが言えるだろう。
こういうことを書くと、「それは衆愚政治に過ぎない」「愚かな民衆を導く賢人が必要なのだ」「エリート主義自体が悪いわけではない」という反論(?)が、自称エリート(Hatenaの住民にもいる?)からは来そうだ。
もちろん、そういう反論(?)は大いにしてもらっていいと思う。
ただ、それをするなら、「民主主義に対する専門知の優先」を声高にしていただき、その理由を記して欲しいもんだとは思う(それがなければ自称エリートの駄々に過ぎない)。


一応蛇足ながら付け加えておくと。
僕は「専門知など不要」と言いたいわけではない。
以上の考察は、あくまでも「専門知と民主主義の優先順位に関して」、である。
市民的価値選択の上で、はじめて専門知を云々できる(政治論議上の意味を持つことができる)、ということが言いたいのだ。
それは、「専門知を語る人は、自らのアイデアが市民的価値に合致することを説得的に語らなければならない」、ということでもあり、「市民(素人)はそれを語れない専門家を持ち上げる必要は全くない」、ということでもある。