「近似」と「モデル化」について

自分の中でも今一つ(?)消化しきれてない気がするので、人様にどれだけ説得的に説明できるか、今一つ自信はないのですが。
せっかくトラックバックを貰ったので、頑張って書いてみよう。
トラックバックのURLを忘れてました(スミマセン)、コチラになります。

細かいなあ、オレも。

キーワードはエントリータイトル通り、「モデル化」と「近似」です。
まず、「モデル化」についてですが、一般には「モデル化とは、現象を理解・説明するための図式化ないし数式化」ということが言えるのではないかと思います。
で、「モデル化」で重要なことは、理解の手助けとなるかどうかであって、それが件の現象と近いかどうかはとりあえず問題にならない(モデルが現実と似ていれば理解の手助けにはなると思うが、必須ではない)。
その意味で、「モデル化」はとりあえず「近似」とは別物と考えられる。


科学とは別の例になってしまうが、「モデル化」の理解でわかりやすいのは地図だと思う。
地図は、それを使って特定の目的地に行けるかどうか(自分の居場所が分かるかどうか)が重要であって、それが現実の通りや店のあり方と近いかどうかは取り敢えずは問題にならない。
今はグーグルアースなんてのがあって、地域の写真も(任意の縮尺で)得られるが、通常はそれは地図としては役立たずである(その土地に馴染みのある人には使えるかもしれないが、そういう人はそもそも地図を必要としない)。
ここでは、写真を「近似」と見なしてもよいかもしれない。


次に「近似」についてですが。
「近似」とは、文字通りに受け取れば、二つの値(など)が近いという意味は最低限あるのではないかな?
つまり、近似を云々できるのは、二者関係についてであると。
で、科学的な領域に限って、どのような二者関係が想定されそうかというと…

「ある値について正確な値は分かっているが、それを使うと(計算が面倒などの)不都合があり、近い値で間に合わせる」
例えば、πを3.14で近似する。
「ある値についてまだ正確な値は分からないが、おおよそこの範囲内にあることが推定され、その範囲にある値を近似値として採用される」
例えば、(真空における)光速の正確な値が分からないが、大体30万km/秒くらいだと分かっているとき、光速を30万km/秒で近似する。
他にも考えられるかな?


いずれにしろ、「近似」という場合「真の値」を「近い値」で代表させる、という意味合いをやはり持っているんじゃないかなぁ?
で、「近似」というの場合は「真の値」へと(可能的に)より近づいていけるということも含意していると思う(「真の値」との誤差をどんどん小さくしていける)。
もちろん、ハイゼンベルク不確定性原理のように、正確な値を追求する限界点はあるのかもしれないが、とりあえずそこまでは原理的には正確な値を求めていける。


ということで、一応「モデル化」と「近似」の違いは示せたのではないだろうか?
もちろん、「近似」と言った時に、実は「モデル化」を想定している場合もあるかもしれない。で、「科学は自然の近似である」と言った人は、「科学は自然のモデル化である」と言いたいのかもしれない。
多分、ある人が「科学は自然の近似である」と言ったときに、たいていの人は「ああ、この人は『近似』という言葉を『モデル化』という意味で使っているのだな」と思うでしょう(好意の原理=Principle of charityってやつですね)。
その意味では、「科学は自然の近似である」は意味が通らないとは言えません(好意の原理に思いっきり依存した物言いが通じて当然だ、と思っているとしたら、僕は「そりゃないんじゃないの?」と言いたいですけどね)。


その意味では、僕のこだわりはほとんどビョーキと言えるものかもしれない(よく言っても言い掛かり)。
まぁ、分析哲学者というのは、そういう意味での(僕なんかには及びもつかない)ビョーキの人たちだろうし、そういうビョー的な概念へのこだわりが僕は結構好きなんですけどね(ま、これは本エントリーとは関係ありませんが)。


ちょっと思いついたのですが、地球シミュレーターなどはちょうど「モデル化」と「近似」の重なるところにあるのかもしれない。うまく言えないですが、単に「モデル化」というだけでは足りない気もします。
しかし、仮に「地球シミュレーターは地球の近似である」が言えるとしても、だからと言って「科学は自然の近似である」とは言えない(と思う)。


以下はトラックバックへの応答。

「二つのものが一致する可能性が想定されなければ、近似するもヘッタクレもありません(近似値とは、真の値を前提にはじめて意味を持つ)。」というのも、それこそが、真理の対応説に則った思考形態であり、勘違いである。

「二つのものが一致する可能性が想定されなければ、」は余分な気もしてきました(あっても別にかまわない気はしますけど)。

僕が言いたかったことは、「近似する」は「対応ないし一致する」を前提としなければ意味を持たない(逆も多分真)ということです。
言いかえれば、「近似する」と「対応ないし一致する」は相互規定的であるということ。
これが「真理の対応説に則った思考形態であり、勘違い」だとすれば(それは全然構わないのですが)、「真の値」を用いずに「近似値」を説明してもらう必要がありそうです。

例えて言うなら、「地球はどんな姿をしているのか?」というのを科学は「球体である」と言っているようなものである。

これは「近似」というよりは「モデル化」と呼べそうですね。

科学で立てるモデルは常に自然を抽象化単純化させたものである。それが真と合致するということはありそうにもないし、それがどれだけ一致しているか、というのは、古い理論と比べて「どちらがよりよく説明できるか」という比較でしかない。


ええ、私たちに言える(あるいは争点にし得る)ことは、どれだけ「よりよく説明できるか」という比較「だけ」ですね。
もちろん、「よりよく説明できる」科学理論を提唱した人(やそれを賞賛する人)が、「世界の真の姿により一歩近づいた(近似した)」と表現する権利はあると思います(し、そう言いたい気持ちも十分に理解できます)が、それでも科学理論は諸現象を「(合理的に)説明できる」以上のことは(厳密に言えば)言えないはずです(繰り返しになりますが、科学理論が自然に一致するということが有意味でなければ)。
もし言うとすれば、「よりよく説明できる」という概念に「真の姿により近づいている(より近似している)」という意味を密輸入したにすぎません。

つまり、もう自然科学(とあえていうが、別の分野でも大抵そう)が、近似という概念を厳密な意味での「真理」というか一般的概念の「真理」を用いて説明することはちょっとない。


「真理」という言葉を使うかどうかは別にして。
繰り返しになりますが、「近似」という概念が、対応ないしは一致(としての真)を前提にしなければ意味を持たない。
ということが言い過ぎであれば、「近似」という概念は、対応ないしは一致(としての真)と親和性が高い。
ことが書きたかったわけです。
ま、些かデフォルメした書き方をしましたけど。

だからと言って、その探究が無意味であったとかってのは言わないよ。より良く分かる方へ科学は発展していくんだ、というだけだよ。


ええ。
僕としては、「より説明できる」とか「より良く分かる」で留まってくれるならいいのです。
それが、いつの間にか「より近づく」とか「より近似していく」とかで置き換えられると、「(自然と対応する)真理としての科学」なる科学観がこっそり密輸入されている、ということなのです。