鳩山発言

実に久々の更新となってしまった…
ま、ネタ切れというのが正直なところですが。
不定期にボチボチ更新していこう。


さて、陸山会事件*1(というのかな?)に関する鳩山首相の発言が、「検察への圧力(公正な捜査を妨害する)」であり行政府の長の発言として不適切であると、主に自民党議員、記者クラブ加盟記者達から批判(というかイチャモン)を受けている。


一つは、民主党大会で小沢氏の「検察と戦う」に対して、鳩山首相による「どうぞ戦ってください」という発言。
もう一つは、逮捕された石川議員について、「起訴されないことを望む」とした鳩山首相の発言。


以下では
a「どうぞ戦ってください」発言
b「起訴されないことを望む」発言
とする。


この二つの発言は、レベルが異なる(一つは全く圧力にならない、一つは圧力といわざるを得ない)のだが、いまだに両者が同様に「検察への圧力」と見做されているように見受けられる。
ということで、法律シロウトという立場も弁えず、少し解説を試みてみたい。


まず確認しておくべきことは、行政府の長(=首相)が責任を持つべきは、当たり前だが行政の仕事や組織のあり方に対してであって、それ以外のことについてはなんら責任を有していない、ということである。
そして、検察は(準司法機関と言われることもあるが)間違いなく行政機関であって、その意味で鳩山首相も検察の仕事や組織のあり方に責任を有する(その責任の果たし方は、第一には適切な法務大臣の任命にあるだろう)。
以上を議論の前提とする。


さて、まず発言bから取り上げる。
起訴は間違いなく検察の職務権限である(検察だけが起訴するかどうかを独占的に(しかもほぼ恣意的に)決めることができる起訴独占主義の妥当性はここでは問わない)。
したがって、bの発言は、検察の仕事内容(=起訴)に直接言及している発言である。
そして、起訴は検察(だけ)の権限であるから、「(石川議員が)起訴されないことを望む」は「検察が(石川議員を)起訴しないことを望む」と言い換えられ、検察の仕事にある種の予断(首相は不起訴を望んでいる)を与えることになり得、それゆえ「検察への圧力」と見做されても仕方がない(というかそのように見做すべきであろう)。
その意味で、鳩山氏には行政府の長としての自覚にやや欠けるところがあったといわざるを得ない(ま、安倍ちゃんや麻生氏のヒドさに比べれば数段マシだが)。
石川議員の起訴云々にかんして問われたなら、「適正な捜査が行われることを望む」程度にとどめるべきであった(と思う)。


したがって、鳩山首相が発言bを撤回したのは、適切ではあった(言わないのがなお良いのはいうまでもないが…)。




次に発言aを取り上げる。
これは、(少なくとも形式上は)行政とは何の関わりもない(=権限を有さない)一政治家の振る舞いに対する言及であって、その意味で行政府の長として責任の及ぶところではない(それ故、不適切な発言とは全く言えない)。
言い換えれば、小沢氏に「どうぞ(検察と)戦ってください」と述べることは、「適正(公平・公正)な捜査が行われることを望む」と完全に両立可能である。


論理バカは次のように、鳩山首相の発言の不適切さを突くのかもしれない。
c「小沢氏に戦えということは、小沢氏が勝つことを望んでいるということだ」
d「それはすなわち検察が負ける(=適正な捜査が行われない)ことを望んでいるということだ」
e「検察が負けることを望むとは行政の長としてはあってはならないことだ」
f「ゆえに発言a『どうぞ戦ってください』は不適切だ」
ま、報道をざっと目にする限りはこんなところか。


まず、「戦え」が「勝つことを望む」を含意するかどうかだが、ライオンと戦おうとするウサギを「戦え」と応援(?)することは論理的にはあり得るが、そのときにウサギが勝つことを想定しているおバカさんはいないだろう(ということで、「戦え」は必ずしも「勝つことを望む」を含意しない)。
したがって、cが崩れ、それゆえこの(不適切さの)推論は成り立たなくなる。


また、「裁判を勝ち負けで捉えるのはどうなの?」、という部分もある。
有罪は、強大な捜査権を有する、警察・検察が証明すべき事柄である。
警察・検察が犯罪の事実を合理的な疑いの余地なく証明してはじめて有罪となり、合理的疑いが残る限り無罪とする(推定無罪に関しては後ほど言及)。
これはあえて言うならば、犯罪立証の「成功」「失敗」と呼ぶべき事態であって、「勝ち」「負け」と表現する事態ではないと思う。
弁護士の奮闘もあるが、弁護士は無罪を立証するのではなく(あるとすればアリバイの立証くらいか)、検察の有罪立証の誤りを突くのがメインだろう。
橋爪大三郎氏流に言えば、「裁判で裁かれるのは検察である」ということだ(検察と被疑者・弁護士の戦いではない)。
ま、これは幾分本質からはずれるかもしれません。



別の観点(推定無罪原則)から(こちらの方がより重要かも?)。
民主主義社会における重大原則に、推定無罪原則がある。
これは、首相はもちろんのこと、当然捜査機関たる警察・検察(さらには報道機関)も従うべき原則である。
が、この重大原則が顧みられることは、ほとんど全くない(これは日本が民主主義社会でないことの一つの証左だろう)。
これは、「何人も、有罪であると合理的な疑いを差し挟む余地なく証明されない限りは、無罪として扱われる」、という原則であり、一義的には有罪・無罪の判決を下す裁判を拘束する原則だろう。
しかし、裁判所がその原則に従っているかどうかは常に疑念が残るため、二義的に、(裁判が推定無罪原則に従って判決を出しているということにして)「何人も裁判で有罪が確定するまでは無罪として扱われる」、ということになるだろう。


しかし、先にも述べたとおり、日本の犯罪報道においては、起訴や逮捕の段階(さらにはそれ以前の捜査段階)で、容疑者(被疑者)は実質的に犯人(=有罪)として扱われており、推定無罪原則が踏みにじられている。
これは捜査機関たる警察・検察と大手メディアが、記者クラブという談合組織を通じて共通利害を有するがゆえに生ずる事態である(ジャーナリストの上杉隆氏にならって官報複合体と呼ぶのが適切か)。
ま、これは本題から外れるのでこれ以上は言及しません。


さて、判決が出るどころか、逮捕・起訴すらされていない小沢氏は当然無罪と推定されます(逮捕・起訴されても一緒ですが)。
無罪と推定される人間が、どのように振る舞おうが(検察の捜査の不当性を訴え、「断固戦う」と発言しようが)、あるいはその振る舞いに対してどのように言及しようが(「どうぞ戦ってください」と発言しようが)、それは全く個人の自由である(首相といえども同様である)。


というか、先にも述べたように、そもそも首相が責任を有するのは行政に対してであって、そこに関わらない一個人に関わる行為(発言も含む)については責任を有さない。
したがって、責任の及ばない行為に対しては、アタリマエ過ぎるが責任の取りようがない。
本来なら発言aについてはこれだけで終了してもよいのだが…


こんなことも理解できずに、鬼の首でも取ったかのようにギャーギャー喚く報道機関(という名の談合利権組織)を見るにつけ、推定無罪原則を理解しない報道機関のある社会はとても民主的社会とは言えないな、と暗澹たる気持ちになってしまいます。


ということで、言いたいことは、「どうぞ戦ってください」をいまだに問題視する自民党議員や大手メディア(以前に問題視したのも同様だが)はアホだということである。

*1:小沢氏の政治資金管理団体陸山会」の2004年の土地購入を巡って、4億円の不記載(虚偽記載?)という政治資金規正法違反で、民主党石川議員(小沢氏の元秘書)を含む3人が逮捕された事件。
国会開会直前の現職議員逮捕ということで(?)、ネット界隈では様々な議論が噴出している(大手メディアには殆ど目を通していないのでわからない)。