戦争へのカウントダウンか?

多少(すっかり?)クールダウンした感のある「飛翔体」騒ぎですが…
あの狂騒がほんの数日でクールダウンするということは、仕組まれたものだったとの思いを強くするばかりです(日本人の冷め易さを表しているのかもしれないが、騒いでいたのは国民というより政府とメディアだったような…)。
「仮に」仕組まれたものだったとするのなら…


対外危機の演出は、国内政治への不満の矛先を変える常套手段ではある。
矛先が変わるどころか、ブッシュ時代の911以後を見れば明らかなように、一般には政権への支持が上昇する(事実、「飛翔体」騒ぎによって麻生政権支持率が不気味に上昇しているように見える)。
内閣支持率アップのために、真相を隠して狂乱に興じたのだとすれば?
もはや国家犯罪に等しいのではないだろうか?


堤未果氏が『ルポ 貧困大国アメリカ』で、あるいは斎藤貴男氏が『ルポ 改憲潮流』で指摘しているように、(日本もアメリカの後を追って着々とその歩みを進めている)膨大な貧困層を生み出す新自由主義政策は、戦争を否定しない(というよりむしろ歓迎する)。
そこには、戦争によって利益を得たい(軍需利権)財界の思惑も見え隠れする。
庶民から搾り取り、大企業を優遇する新自由主義が、(少なくとも短期的には)財界にとって歓迎すべきものであることは今さら言うまでもないが(長期的に見れば?)。
それが、先日の池田氏のブログ(2)で述べた、「新自由主義新保守主義の親和性」ということになるだろう。


富める者(勝ち組)と貧しい者(負け組)を心理的に分断し、連帯を限りなく困難にする(にもかかわらず、当人たちにはその自覚すら与えない)新自由主義は、ほとんど悪魔の思想と僕には思える(支配者にとってはこれ以上の道具はないかもしれない)。
一握りの富める者と、大多数の貧しい者を「構造的に」生み出すにもかかわらず、そして世襲政治家に象徴的であるように富める者の大部分が「上げ底」(スタート地点の不平等)によって勝ち組となっているにもかかわらず、勝ち組はその実力・努力によって勝ち組の地位を得、負け組はその実力・努力のなさゆえ負け組に落ちた、と人々に信じ込ませる「自己責任論」(というイデオロギー)が幅を利かせる。
人々はどのようにしてこのイデオロギーを受け入れていくのだろうか?(僕にはまだよく分からない)


人々を個人へと分断する「自己責任論」を内面化した人間が、他者との連帯を図ることは難しい(というより連帯させないために分断するのだが)。
そのような社会は、もはや社会と呼ぶには相応しくないと思える(社会の社会たる所以は、個人にできないことを協力関係を築くことで可能にすることにあるのだから)。
だとしたら、連帯によって社会をよりよいものにしたいと私たちが望むのであれば、私たちは「自己責任論」を断固として拒否しなければならない。
とはいえ、すでに社会に網の目のように張り巡らせた「自己責任論」をそうやすやすと引き剥がすこともできない。
空気のように私たちの社会に入り込んだ「自己責任論」の炙り出し。
それが、政権交代後に取り組むべき課題なのかもしれない(政権交代が実現するとして)。


政権交代ができないとしたら、貧者を構造的に生み出し続ける新自由主義が貧困から抜け出す唯一の方途として戦争を提示することを、一体どうやって食い止めることができるだろうか?