池田氏のブログ (2) 追記と若干の修正あり

えーっと、当ブログは池田氏ヲチではない(つもり)ですが、チョイと突っ込みたいエントリーを見かけたので。
本日は氏の忘れるという合意についてだ。
氏のエントリーを読むと、新自由主義という経済的(?)立場と、新保守主義という政治的(?)立場の親和性が否応なく突きつけられる思いである。
小泉〜安倍政権において急進的に進められ、福田〜麻生政権においても決してその歩みを止めることのなかった新自由主義新保守主義(政策)が、その間の首相がいずれも世襲政治家である(あった)という事実にその本性を顕にしている、と思うのは僕だけだろうか?
それはさておき。


彼ら(注:元ナチ党員)が復権した理由は、日本と同じである。冷戦が始まり、経済の再建に彼らの力が必要だったからだ。こうした集団的な記憶喪失がなかったら、欧州の再建は不可能だっただろう、と本書(注:ヨーロッパ戦後史 (上))は指摘する。

「本書は指摘する」とさりげなく(?)逃げ道を用意しているように思えますが、まあ池田氏の主張とも合致するから本書の指摘を述べているのでしょう。
ということで進めます。
まず、「集団的な記憶喪失」と述べていますが、ある事柄(国家犯罪を含めて)に関して、「法的な決着をつける」ことと「集団的な記憶喪失に陥る」ことは当然のことながら全く別のことである。
というより、戦争のような国家犯罪を二度と犯さないと決意するのであれば、「集団的な記憶喪失」など断固として拒否しなければならないはずである。
例えば、災害(台風や地震や火災)によってある地域が壊滅的な被害を被った場合、再建に関わる人たちは、あたかもそのような自然災害などなかったかのように「集団的な記憶喪失」に陥らなければ再建など不可能だといいたいのだろうか?
再建した神戸の人たちは、震災のことなど記憶から吹っ飛んでしまっているといいたいのだろうか?
あるいは、災害からの復興には「集団的な記憶喪失」など必要がないが、戦争からの復興において「だけ」は「集団的な記憶喪失」が必要不可欠とでもいいたいのだろうか?

「集団的な記憶喪失」と「復興」に何らかの因果的関係を想定するなどは、僕にとってはトンデモ以外の何物でもないのだが…



戦争のような国家犯罪に手を染めたとしたら、その記憶を後世に残すのは現世代の義務ですらあると思う。
というのも、ある国家犯罪をその国民が「集団的に記憶喪失」してしまったとしたら、その国家はいつまた同様の国家犯罪を起こさないとも限らないからだ。
つまり、どのような制度的欠陥のせいで、どのような権力構造のせいで、どのような経緯で、そのような国家犯罪が生じたのかを、「集団的な記憶喪失」に陥ることなく、記憶にとどめ続けなければならない。
少なくとも、それが戦争放棄を謳った憲法を有する日本政府および日本国民の義務のはずである(日本国民の、という部分はやや気がひけるがとりあえずはこう述べておこう)。


過去に起こした国家犯罪を、「集団的な記憶喪失」によって忘却の彼方へ葬り去りましょう、などという国家があるとするならば、そら誰からも信用なんぞされませんわ。
ということで、日本国家の信用をいかに失墜させるか、という観点からは池田氏の提言は十二分に傾聴に値することになるでしょう(あ、コレ皮肉)。

戦争犯罪に手を貸したという点では、ほとんどすべてのドイツ人が戦争犯罪者であり、

あらま、一億総懺悔の思考停止ですか?

その一部だけを戦犯として処刑したニュルンベルク国際軍事裁判は、大部分のドイツ人を免罪する儀式だったのである。

池田氏は「責任」という概念をお持ちではないのでしょうか?
確かに、そう受け取られても仕方のないほど無責任な放言が多すぎる気はしますが…
ある企業がなんらかの犯罪(粉飾決算など?)に手を染めていたとして、別に社員全員をしょっ引かないからといって、「大部分の社員が免罪された」とは表現されないでしょう。
きちんと「権限」のある者に「責任」を取らせればいいし、取らせるべきなのですよ。
で、そもそも「権限」のないものについては「責任」を問うことはできません(し、問うべきではない)。
ある人間を裁く裁判は、その人を裁いているわけであり、別の人間の罪状の有無については全く関係がないはずです。
例えば、宮崎勤氏を裁いた裁判は、宮崎勤氏を裁いたわけであり、それ以外の何人の罪状についても言及したわけではありません(当たり前ですが)。


と、取り敢えず中途半端ですが、ここまでにしよう。
あとで追記するかも、です。

以下追記。
上記では国家戦争に関った日本人の記憶についてですが、被害を被った人々の記憶についても簡単に述べておこう(日本人の多くもまた被害者でもあったということは言うまでもない)。
被害者に「集団的な記憶喪失」に陥れ、と要請することは、「いじめられたことは忘れろ」といじめられた子に要請する、いじめっ子小学生の言い分にも等しい言いがかりである、ということを指摘すれば十分でしょう。

もし協力関係を築きたいなら、具体的な協力関係を作り上げていくしかないし、協力関係を作れないからと言って「協力しないお前が悪い」というのならば、先の小学生的言いがかり以外の何物でもない。