『真理・言語・歴史』2 「意味」と「意図」

ドナルド・デイヴィドソンの『真理・言語・歴史』を読んで(まだ読書中)、第二弾です。
本日は主に異論を。


デイヴィドソンの意味論(言語がいかに意味を有するか)は、真理条件意味論と呼ばれる。
簡単に言えば、「文の意味とは、その真理条件である(文の意味を知るとは、その真理条件を知ることである)」、ということである。
例えば、「Snow is white」の意味は、この文章の真理条件によって与えられる。
そして、「Snow is white」の真理条件が、「雪は白い」のそれと同じであるとき、「Snow is white」の意味は「雪は白い」と言ってよい(「雪は白い」の真理条件は知られていると仮定する)。
大雑把にまとめれば、以上が真理条件意味論である。
僕自身は、真理条件意味論に一定の意味(意義)を認めるのに吝かではないが、意味がこれに尽きるのか、というところには一定の疑問を持っている。


一方でデイヴィドソンは、話者の発話に込めた「意図」を、その発話の「意味」にとって本質的だと見做しているようにも思える。
話者の「意図」とは具体的には、自らの発話を「これこれのように理解してもらおうとする意図」である。


もし、デイヴィドソンが正しいとすれば、「『(発話の)意味』にとって発話者の『意図』が本質的である」と「真理条件意味論」との整合性が保たれなければならないだろう。
しかし、「意図」は一般的には心的概念と考えられている(僕自身が「意図」をどう捉えるかはエントリーを改めて)。
真理条件は決して心的なものにはとどまらない(心的なものを含まない、という意味ではない)。
つまり、「真理条件」は必ずしも「意図」を含まない。
とすれば、言語の「意味」にとって、話者の「意図」は必ずしも必要とされない(はずである)。


僕の考えでは、言語に意味を与えるのは、「話者および解釈者の言語的背景(それぞれがどのように自らの言語を発展させてきたか)」、その発話がなされる「社会的文脈(に関する各々の理解)」、そして実際に「どのような発話がなされたか」、である。
これらが相互にすり合わされることにより(通常はこのすり合わせは、殆ど無意識に行われるが)、発話が意味あるものとなる。
そして、僕の考えでは、真理条件は、「話者および解釈者の言語的背景」に関わるだろう(それと同一とまでは言わないが)。
しかし、一方上記の図式には、「意図」の入り込む余地はないと思われる(可能性としては「社会的文脈」か)。
つまり、言語の意味が成立する上で、「意図」は必要でもなければ、十分でもない。

デイヴィドソン『真理・言語・歴史』1

ドナルド・デイヴィドソン『真理・言語・歴史』を読書中です。
なんとも難解ですが、やはりデイヴィドソンは面白い。
言語問題の中枢に真正面から切り込んでいる、と言いますか…


読み進めていくうちに、賛同する部分と賛同できない部分が出てきたので、メモ代わりに記しておこう。
詳細をあまり論理的に詰めて行く余裕はないので、あくまでもメモ的に。


まず、デイヴィドソンは言語の「意味」を「真理」との関わりにおいて捉えようとする。
ただし、デイヴィドソンは「真理」を定義しようとはしない。
それどころか、「真理」を定義しようとするいかなる試みも退ける。
ということはどういうことか?
「真理」は定義するまでもない基底的な(それ以上遡及できない)概念であるということに他ならない。


ところで、デイヴィドソンの意味論は、真理条件意味論と呼ばれる。
砕いて言えば、言語の意味は真理条件によって与えられる(端的に「言語の意味とはその真理条件である」と言ってもよい)。
真理条件意味論は次のように表現できるだろう。


真理条件は次のように定式化できる

真理条件:sが真であるのは、pであるとき、そのときに限る(ここで、s、pにはそれぞれ特定の文章が入る)

そして、s、pが上記の真理条件を満たすとき、sの意味はpである、と言える(pの意味はsである、と言っても同じことである)。

例えば、sを「Snow is white」、pを「雪は白い」としよう。
このs、pが上の真理条件を満たすならば、「Snow is white」の意味は「雪は白い」である、と言ってよい。
これが真理条件意味論である。


ところで、「真理」を定義しようとする様々な試みがなされてきた。
代表的なものが、「真理」を「事実との対応」によって定義しようとする試みである(真理の対応説)。
これは一見素朴で、しかも科学の成功を実にうまく説明できるがゆえに強力でもある(しかし僕はこの説は取らない)。
このような試みをデイヴィドソンはひっくり返し、「真理」こそが基底的で、意味を生じさせるものである、と説く。
哲学においてはこのちゃぶ台返しが心地よいのだ(心地よいだけでもないのだが)。


それはともかく。
言語が意味を持つがゆえに、私たちのコミュニケーション(意思疎通)が可能となり、言語が意味を持つのは、まさに「真理(条件)」による、というのがデイヴィドソンの立場である。
それゆえ、デイヴィドソンは「真理」のデフレ主義者(「真理」抜きに物事を論じようとする人々:リチャード・ローティはその一人だろう)をも退ける。
(真理条件意味論によれば)言語の条件に「真理」がある以上、「真理」を無視できないのは当然であろう。


ところで僕自身は、「真理」のデフレ主義者と自己規定してきた(今も多分そうである)。
デイヴィドソン流の「真理条件意味論」にコミットしつつ、「真理」のデフレ主義者であることは可能か?
それが多分、僕の取り組むべき課題なのだろう。

「事実との対応」観念に対する内在的批判


えー、先日のエントリーは、「『事実との対応』こそが、言明が真であるかの決定因子なのだ、エッヘン!」という言明の真理値(真か偽か)に訴える、というややアクロバティックな(?)「事実との対応」観念批判でした。
もちろん、言明の真理性を「事実との対応」に求める人は、「『事実との対応』こそが、言明の真偽を決定する」という言明の真偽を(それゆえ、この言明の対応すべき事実を)示す必要があります。
それができなければ、「真偽不明の命題」にコミットする教条主義者の誹りを免れ得ません。


まぁ、これは本日のお題ではないので、これ以上は言及しません。
ただし、「事実との対応」が望み薄(絶望的)だからといって、「自然との近似」へと退却するのであれば、それは思考停止に他なりません。
「事実との対応」観念が不毛であるとすれば、その一バリエーションたる「自然との近似」もまた不毛である他ありません。


少し(?)、わき道にずれました。


ここでは、「事実との対応」観念に対する、より根本的(内在的)批判を試みてみたい。


その前に、「(言明の)事実との対応」という観念は、近代哲学(認識論)の問題意識の変奏に過ぎないとも言えます。
その近代哲学の問題意識とは簡単に言えば、「我々の主観はいかに正確に客観を捉える事が出来るのか?」ということであります。
「そのような問題意識がいかに発生したか?」について、少し考えてみましょう(幾分?創作めいています)。


私たち個々人は各々の主観をもって生活しています。
そしてその主観は、ある時は一致するように見え、またあるときはお互い相容れないように思われます。
しかし、私たちが社会生活を営むとすれば、最低限一致する認識(例えば何が社会的悪か)が必要に思われます。
そのような、最低限の認識の一致すらない状況で、安定的な社会生活を営むのは困難に思われるでしょう。
逆に、社会が不安定化したとき、社会的安定の基盤としての「認識の一致」的なものを希求するするのは自然な感情と申せましょう(その希求に答えるのが一般には宗教でしょうが、宗教の権威が失墜していた)。


時代の条件として、ニュートン物理学の確立により、自然の客観的姿が明らかになりつつある、と信じられていました。
つまり、私たちの主観を越えたところに、(主観とは独立の)客観という確固たる存在がある、との信憑が優勢になりつつあったと申せましょう。


つまり、一方で社会の不安定さが、主観の頼りなさを否応なく突き付け、また一方で自然科学の確立により、客観が揺るぎないものとして人々に信じられるようになった。
しかし、もし主観がてんでバラバラのものだとしたら、どうして客観世界を描く(つまり自然科学を確立する)ことができるだろうか?
主観は一見バラバラに見えても、それが正当な手続き(?)を経れば、唯一の客観に到達することができる、つまり主観と客観を一致させることができる(に違いない)。
これが認識論の問題設定でありました。
そして、その問題設定の先には、主観と客観の一致が保証できれば、(客観的な)理想的な社会の在り方を決定できる、という願望があったのではないだろうか?


ここでは認識論的問題設定の是非については言及しません。
ただ、「主観と客観の一致」という認識論的問題意識が、「(言明の)事実との対応」という観念とパラレルである、ということを確認するにとどめます。


さて、簡単におさらいします。


1.「(言明の)事実との対応」という観念は、「主観と客観の一致」という認識論的問題意識とパラレルである
2.「主観と客観の一致」という認識論的問題意識は、自然科学の確立という客観への信憑と、社会的不安定という主観の頼りなさをその成立の条件とした(多分)
3.認識論的問題意識の先には、理想的社会の希求(ユートピア願望)があるのではないか?


3はちょっと余分な気もしますが…まぁ、いいか

「事実との対応」という観念について

先日のエントリーでは、私たちが自然科学などのうまく機能する概念装置を前にして、「なぜこの概念装置はうまく機能するのか?」と問う時(「なぜ?」を問う存在である人間にとって、これはほぼ必然的な問いである)、因果的な枠組みでこの問いに答えようとすれば、「この概念装置が事実と対応しているから」となることはほぼ必然だ、ということを確認しました。


異論がある方はコメント欄でどうぞ。


さて、「事実との対応」という観念に対する批判の代表には、「言明が事実と対応するとはどういうことか?」を事細かに分析して批判する、というのがあります。
ここではその詳細には踏み込みませんが(と言っても、大層な分析はできませんが)、簡単にヒントを出すなら、「言明と対応する事実をどのように指示せばいいのか?」を考えればよいでしょう。


では、本エントリーでの「事実との対応」観念に進むことにします(なにぶん素人なもので、誰かがこの手の批判を行ったかどうかは知りません)。


えー、「事実との対応」という観念は象徴的には、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」、という形で表されます。
上記のバリエーションの一つに、「自然は科学の近似である(それゆえ真である?)」というテーゼがありますが、これについては以前に批判したのでここでは繰り返しません。


さて、上記の「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」を考えてみましょう。
この言明の真理値は一体どうなっているのでしょうか?
言い換えれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」は真でしょうか?偽でしょうか?それとも真でも偽でもない言明なのでしょうか?


すくなくとも、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」というテーゼにコミットする(=事実との対応という真理観に立つ)人は、この問いに答えなければならない。


上記の問いの答えが「真である」としましょう。
とすれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」という言明が対応するべき「事実」を示さなければなりません。
そうでなければ、「言明は、それが事実と対応しなくても、真(理)である(場合がある)」ということを認めることになるからです。
「事実との対応が真(理)と決めるのだ!」とリキんでいた人物が、「事実と対応しない真(理)がありました、エヘ」と舌を出すようなもんです。
もちろん、方向転換をするのは勝手ですが、その場合「真とはどういうことか?」を改めて示さなければなりません。


僕からすれば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」ような事実などどう逆立ちしたところで示せるわけなどありません。
もし、「オレはそのような事実を示せるぜ!」、という人がいれば、このコメント欄ではなく、哲学雑誌に投稿しましょう!(哲学史上もっとも重要な論文になること請け合いです)


もちろん、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」ような事実が示されないからと言って、このテーゼが偽と証明されるわけではありません。
しかし、当然のことながら偽と証明されていない命題が真であるわけもないのであります。
「神はいない」ことを証明できないからと言って(悪魔の証明ですけどね)、「神がいる」ことにはならないのと同じことです。


真と証明されない言説(例えば、「言明は、それが事実と対応する時に、真(理)である」)に拘泥することを、一般的には教条主義と呼べるでしょう。
このドグマから解き放たれることは簡単です。
「事実との対応」という観念を放棄しさえすればいいわけです。
まぁ、それが難しいんでしょうけど(僕自身、容易にこの考えに傾きますし)。


「事実との対応」という観念に対する根本的な批判にはなっていないかもしれませんが…
根本的な批判を要求すること自体が、知的強迫と言いますか…
ま、健全な懐疑主義を身につけるためには、「事実との対応」という一見もっともな観念を批判できなければならないってことでしょうか。


なんかきれいにまとめ過ぎたような…

事実との対応について

いま、ドナルド・デイヴィドソン『真理と述定』を読んでいます。
自分が一体どれほどを理解してるか、全く持って自信はありませんが(2割も理解できているかどうか・・・)、とにかく読んでいます。
しかしそれでも、「事実との対応」という真理概念がアメリカの分析哲学の中でも小さくない位置を占めている(らしい)ことは十分に読み取れます。
大分前に、「事実との対応」に関しては書いたのですが、少し違った視点から述べてみたい。


以前のエントリーで、「科学は自然の近似である」というスローガンに対する批判的検討「自然との対応」と「自然との近似」の親和性について述べましたので、よかったらご参考に。


さて、「事実との対応」としての真理概念の検討に入る前に・・・


一体どうして「事実との対応」が問題になるのか、問題にならざるを得ないのか、その辺りを簡単に確認しておきたい。


さて、現代に住まう私たちは、日常様々な概念装置を用いている(少なくとも社会の中にそれらを駆使している人々がいる)。
というか、そのような概念装置抜きに現代生活を送ることは不可能と断言してよい。
そして、その代表的なものが科学理論である。


コンピュータを設計・使用するにしろ、天体の動きを予測するにしろ、あるいは医者が患者を治療するにしろ、そこには通常自然科学(と呼ばれる概念装置)が何らかの仕方で関わっている。
あるいは、経済や社会の動きを記述し、予測する社会科学(経済学、政治学など)も、代表的な概念装置であろう。


何らかの問題に対処するに当たって、これらの概念装置を使ってうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。
そして、現在残っている概念装置の多くは、(それを使用することで)他のものよりもうまくいくことの多いものであるだろう(うまくいかない概念装置は、単に切り捨てられるだろう)。
その意味で、現在ある概念装置は、(生物が進化するように)人間社会の要求によりうまく応えられるように進化したもの、と言えるだろう(科学理論はミームの一種である、と言ってもよい)。


さて、人間は常に「なぜ(Why)?」を問う存在である。
そして、「なぜ(Why)?」という問いが、人間の知的営みを推進する力となったのは事実だろう(恐らく、人間以外の知的生命体が存在するとすれば、それもまた「なぜ(Why)?」という問いを発する存在だろう)。
しかし、「なぜ(Why)?」という問いが、人を出口のない迷宮にいざなってしまうこともままある(ヴィトゲンシュタインによれば、哲学の大部分はこれに該当するのだが・・・)
もっとも、このことは人間の持つ様々な特徴にはいい面と悪い面がある、という極々ジョーシキ的な見解を表しているに過ぎないのだが・・・


さて、「なぜ(Why)?」を発する存在が、様々に機能する概念装置(例えば科学理論)を目の前にして、「この科学理論はなぜこんなにうまくいくのだろうか?」という問いを発するのは、当然過ぎるとも言えましょう(その問いを発しないでいることのほうが難しいでしょう)。
そして、科学教育を通じて因果的思考に慣れ親しんだ私たちが、因果的な枠組みでこの問いに答えるのもまた当然過ぎることでしょう(より正確には、因果的な枠組みで応えることが真に正しい答えを導くものだ。と私たちの多くは思っている)。


では、因果的な枠組みで、上記の問い「この科学理論はなぜこんなにうまくいくのだろうか?」に答えようとすればどうなるでしょうか?
「それは、この科学理論が事実と対応しているからである(事実を正確に言い当てているからである)」という答え以外には考えにくい。


では、本日のまとめ。


1.私たちの元には、現実にうまく機能する(その機能の度合いの差はあるだろうが)様々な概念装置がある
2.私たち人間は、常に「なぜ(Why)?」という問いを発してきた(一方でそれが知的営みを推進し、他方で答えのない問いで人々を苦しめることになった)
3.そのような状況下で、人はほぼ必然的に、「なぜこの概念装置はうまく機能するのか?」という問いを発する
4.その問いに対する、因果的な枠組みでの答え(多くの人はそれを欲している)が、「事実と対応するゆえ」であった


その意味で、「事実との対応」という観念は、人々の持つ「自然」ゆえに当然発生する宿命を帯びていたとも言えるだろう。
もちろん、だから「事実との対応」という観念が、「正しい」ものであるわけでもない(この場合の「正しい」の内実は措く)。


その辺りをエントリーを改めて論じてみたい。

批判的営みとしての科学

久しぶりに科学哲学チックな話をしてみたいと思う(というか、ブログの更新自体が久しぶりなのだが…)。
その前に、科学とはなんぞや、を簡単に。
こちらのエントリーでも述べたように、最低限「シンボル操作によって自然現象を記述する試み」ということは言えるだろう。
しかし、これでは疑似科学と自然科学の違いを述べることはできない。
疑似科学と言えども、先の定義には当てはまるだろうからだ。
疑似科学と自然科学の区別をしたいのであれば、その違いを有意味に述べなければならないだろう。
その違いの記述が直ちに「疑似科学バッシング」へと導かれるかはわからないのだが…(というより、違いの記述自体は価値に依存的なものではなく、バッシングに導かれるはずはないと思われる)。


まぁ、それはそれとして。


疑似科学と科学の違いは、疑似科学と科学の区別に執拗に拘ったポパーに依拠して述べてみる。
ポパーは、科学の正しさ(真理性)は批判によってのみ到達され得る、と考えた(批判的合理主義)。
その考えによれば、逆説的だが、私たちが真理に到達することは決してできない
というのも批判的合理主義という立場に立つ限り、「これが永遠不変の真理だ」という言い方は決してできないからだ(いつ批判に晒されないともかぎらない)。
現在残っている科学理論は、言えるとしても「現在までのところ、様々な批判に耐えてきた(いま現在深刻な批判に直面していない)」ことまでであって、今後も批判に耐え続ける(だろう)ことを保障するものでは全くない。
である以上、「これが真理だ」という形で真理を肯定的に述べることはできない。


では、「批判とは何ぞや?」ということになりますが、ごくごく簡単に述べれば、誤りを見出そうとすること、でありましょう。
仮説(理論)の誤り(不具合)を見つけ出し、それを正せば、それはすなわち仮説(理論)がより正しく(確からしく)なることに他ならない。
まぁ、こう書けばジョーシキ的と言えばジョーシキ的である。
ポパーが一見ジョーシキ的なこのようなアイデア(批判的合理主義)を持ち出さなければならなかったのは、科学に対する別の見方が支配的であったからに他ならない。



その意味で、批判的合理主義とは、より正確に言えば反証主義ということになるのだろう。
つまり、批判が有意味に行われるためには、理論が反証可能性を有さなければならない。
というのも、理論がどのような経験によっても反証されない(=反証可能性を有さない)とすれば、そのような理論を批判することは決してできないからだ。
例えば、「病は神の怒りによってもたらされる」という言明を反証する経験を示すことは、多分できないだろう(それゆえ、この言明は科学の一部にはなり得ないだろう)。


たまに、「私の説を反証し給え」とのたまう、反証主義を聞きかじった(だろう)人に出くわすことがあるが、こういう人に限って反証可能性を有さない言説を吐いていたりする。
まぁ、これは余談。


簡単にまとめると、科学は批判によって進展する(そのためには、科学的言説は反証可能でなければならない)。
これがポパー流の批判的合理主義(反証主義)である。
合理主義者たるポパーは、その絶えざる批判の先に残るものとしての真理を夢想した(僕はそれは夢想に過ぎないと考えるのだが)。
個人的には、そのような否定的な真理概念も不要だと(場合によっては、有害であるとすら)思っている。
が、まぁ、ここではそこには言及しない。


一点ここで注意しておくと、決定的な反証(ただちに科学理論の破棄を導く反証)というものは、恐らく存在しない。
反証は、その科学理論のどこかに不具合があることを示すに過ぎないのであって、どこを手直しするか(あるいは破棄するか)についての正解は明らかではない(その意味で、反証主義全体論的性質を有する)。
全体論的性質を有するとは、科学理論の価値が全体としてうまく働くかどうか(現象と整合的であるかどうか)で判断される、ということだ。
で、科学理論には、比較的修正を受けやすい部分と、修正を受けにくい部分があるだろう。
修正を受けにくい部分(科学のコアな部分)を、パラダイムと呼ぶこともできるだろう。
もちろん、「修正を受けやすい/受けにくい」の区別は相対的であって、そこに明瞭な区別ができるわけではない。


ここまで、科学(という営為)の特徴が批判的合理主義(反証主義)にある、と述べてきた。
ここで注意したいのは、だからと言って、個別の科学者(あるいはその思考)が、批判的合理主義に基づいているとは限らない、ということである。
むしろ、個別の科学者の振る舞いに関わらず、全体としての科学的営為が、批判に導かれているかのように立ち現れる。
アダム・スミス流に、見えざる神の手に導かれる、と言ってもよいかもしれない(ダーウィン流に淘汰と呼んでもよいかもしれない)。
次はその辺りをもう少し詳しく述べてみたい。

鳩山発言

実に久々の更新となってしまった…
ま、ネタ切れというのが正直なところですが。
不定期にボチボチ更新していこう。


さて、陸山会事件*1(というのかな?)に関する鳩山首相の発言が、「検察への圧力(公正な捜査を妨害する)」であり行政府の長の発言として不適切であると、主に自民党議員、記者クラブ加盟記者達から批判(というかイチャモン)を受けている。


一つは、民主党大会で小沢氏の「検察と戦う」に対して、鳩山首相による「どうぞ戦ってください」という発言。
もう一つは、逮捕された石川議員について、「起訴されないことを望む」とした鳩山首相の発言。


以下では
a「どうぞ戦ってください」発言
b「起訴されないことを望む」発言
とする。


この二つの発言は、レベルが異なる(一つは全く圧力にならない、一つは圧力といわざるを得ない)のだが、いまだに両者が同様に「検察への圧力」と見做されているように見受けられる。
ということで、法律シロウトという立場も弁えず、少し解説を試みてみたい。


まず確認しておくべきことは、行政府の長(=首相)が責任を持つべきは、当たり前だが行政の仕事や組織のあり方に対してであって、それ以外のことについてはなんら責任を有していない、ということである。
そして、検察は(準司法機関と言われることもあるが)間違いなく行政機関であって、その意味で鳩山首相も検察の仕事や組織のあり方に責任を有する(その責任の果たし方は、第一には適切な法務大臣の任命にあるだろう)。
以上を議論の前提とする。


さて、まず発言bから取り上げる。
起訴は間違いなく検察の職務権限である(検察だけが起訴するかどうかを独占的に(しかもほぼ恣意的に)決めることができる起訴独占主義の妥当性はここでは問わない)。
したがって、bの発言は、検察の仕事内容(=起訴)に直接言及している発言である。
そして、起訴は検察(だけ)の権限であるから、「(石川議員が)起訴されないことを望む」は「検察が(石川議員を)起訴しないことを望む」と言い換えられ、検察の仕事にある種の予断(首相は不起訴を望んでいる)を与えることになり得、それゆえ「検察への圧力」と見做されても仕方がない(というかそのように見做すべきであろう)。
その意味で、鳩山氏には行政府の長としての自覚にやや欠けるところがあったといわざるを得ない(ま、安倍ちゃんや麻生氏のヒドさに比べれば数段マシだが)。
石川議員の起訴云々にかんして問われたなら、「適正な捜査が行われることを望む」程度にとどめるべきであった(と思う)。


したがって、鳩山首相が発言bを撤回したのは、適切ではあった(言わないのがなお良いのはいうまでもないが…)。




次に発言aを取り上げる。
これは、(少なくとも形式上は)行政とは何の関わりもない(=権限を有さない)一政治家の振る舞いに対する言及であって、その意味で行政府の長として責任の及ぶところではない(それ故、不適切な発言とは全く言えない)。
言い換えれば、小沢氏に「どうぞ(検察と)戦ってください」と述べることは、「適正(公平・公正)な捜査が行われることを望む」と完全に両立可能である。


論理バカは次のように、鳩山首相の発言の不適切さを突くのかもしれない。
c「小沢氏に戦えということは、小沢氏が勝つことを望んでいるということだ」
d「それはすなわち検察が負ける(=適正な捜査が行われない)ことを望んでいるということだ」
e「検察が負けることを望むとは行政の長としてはあってはならないことだ」
f「ゆえに発言a『どうぞ戦ってください』は不適切だ」
ま、報道をざっと目にする限りはこんなところか。


まず、「戦え」が「勝つことを望む」を含意するかどうかだが、ライオンと戦おうとするウサギを「戦え」と応援(?)することは論理的にはあり得るが、そのときにウサギが勝つことを想定しているおバカさんはいないだろう(ということで、「戦え」は必ずしも「勝つことを望む」を含意しない)。
したがって、cが崩れ、それゆえこの(不適切さの)推論は成り立たなくなる。


また、「裁判を勝ち負けで捉えるのはどうなの?」、という部分もある。
有罪は、強大な捜査権を有する、警察・検察が証明すべき事柄である。
警察・検察が犯罪の事実を合理的な疑いの余地なく証明してはじめて有罪となり、合理的疑いが残る限り無罪とする(推定無罪に関しては後ほど言及)。
これはあえて言うならば、犯罪立証の「成功」「失敗」と呼ぶべき事態であって、「勝ち」「負け」と表現する事態ではないと思う。
弁護士の奮闘もあるが、弁護士は無罪を立証するのではなく(あるとすればアリバイの立証くらいか)、検察の有罪立証の誤りを突くのがメインだろう。
橋爪大三郎氏流に言えば、「裁判で裁かれるのは検察である」ということだ(検察と被疑者・弁護士の戦いではない)。
ま、これは幾分本質からはずれるかもしれません。



別の観点(推定無罪原則)から(こちらの方がより重要かも?)。
民主主義社会における重大原則に、推定無罪原則がある。
これは、首相はもちろんのこと、当然捜査機関たる警察・検察(さらには報道機関)も従うべき原則である。
が、この重大原則が顧みられることは、ほとんど全くない(これは日本が民主主義社会でないことの一つの証左だろう)。
これは、「何人も、有罪であると合理的な疑いを差し挟む余地なく証明されない限りは、無罪として扱われる」、という原則であり、一義的には有罪・無罪の判決を下す裁判を拘束する原則だろう。
しかし、裁判所がその原則に従っているかどうかは常に疑念が残るため、二義的に、(裁判が推定無罪原則に従って判決を出しているということにして)「何人も裁判で有罪が確定するまでは無罪として扱われる」、ということになるだろう。


しかし、先にも述べたとおり、日本の犯罪報道においては、起訴や逮捕の段階(さらにはそれ以前の捜査段階)で、容疑者(被疑者)は実質的に犯人(=有罪)として扱われており、推定無罪原則が踏みにじられている。
これは捜査機関たる警察・検察と大手メディアが、記者クラブという談合組織を通じて共通利害を有するがゆえに生ずる事態である(ジャーナリストの上杉隆氏にならって官報複合体と呼ぶのが適切か)。
ま、これは本題から外れるのでこれ以上は言及しません。


さて、判決が出るどころか、逮捕・起訴すらされていない小沢氏は当然無罪と推定されます(逮捕・起訴されても一緒ですが)。
無罪と推定される人間が、どのように振る舞おうが(検察の捜査の不当性を訴え、「断固戦う」と発言しようが)、あるいはその振る舞いに対してどのように言及しようが(「どうぞ戦ってください」と発言しようが)、それは全く個人の自由である(首相といえども同様である)。


というか、先にも述べたように、そもそも首相が責任を有するのは行政に対してであって、そこに関わらない一個人に関わる行為(発言も含む)については責任を有さない。
したがって、責任の及ばない行為に対しては、アタリマエ過ぎるが責任の取りようがない。
本来なら発言aについてはこれだけで終了してもよいのだが…


こんなことも理解できずに、鬼の首でも取ったかのようにギャーギャー喚く報道機関(という名の談合利権組織)を見るにつけ、推定無罪原則を理解しない報道機関のある社会はとても民主的社会とは言えないな、と暗澹たる気持ちになってしまいます。


ということで、言いたいことは、「どうぞ戦ってください」をいまだに問題視する自民党議員や大手メディア(以前に問題視したのも同様だが)はアホだということである。

*1:小沢氏の政治資金管理団体陸山会」の2004年の土地購入を巡って、4億円の不記載(虚偽記載?)という政治資金規正法違反で、民主党石川議員(小沢氏の元秘書)を含む3人が逮捕された事件。
国会開会直前の現職議員逮捕ということで(?)、ネット界隈では様々な議論が噴出している(大手メディアには殆ど目を通していないのでわからない)。