裁判員になる前に読む二冊

なんか、Hatenaでよくあるタイトルで、僕的にはあまり好きではないのですが…

ちなみに言っておくと、僕は裁判員制度について、それほど調べたわけではありません(裁判制度というか法全般についてド素人です)。
それでも、来たる裁判員制度(および現行裁判制度)に少なからぬ問題があることは理解しているつもりです。
それについて、二冊の図書を導きの糸にして述べてみたい。


まず第一に、僕を含めて圧倒的大多数の人にとって、裁判員制度が対象とする事件は全く馴染みのないものであり、そもそも裁判自体も馴染みがない(だろう)ということです。
そのそも日本人の多く(僕も含めてだが)は、近代裁判の理念について理解していないように思われる(推定無罪原則、罪刑法定主義など)。
したがって、裁判員に対して裁判官が様々な教示を与えるのだろうが、その妥当性について多くの人は適切に判断することは難しいだろう(別に馬鹿にしているわけではなく、やはり経験と知識の差はいかんともし難い)。
しかも、裁判官の教示(助言や法解釈)の妥当性は、(刑罰を含む罰則によって裁判員に課された)守秘義務に守られ(?)公的に議論されることは決してない
つまり、裁判官の誤った誘導によって(とあえて書きます)、実際には無実の被告人に有罪の判決を下したとして(冤罪)、それを検証して冤罪を防ぐ手立てを講じることが絶望的に困難になるということだ(それは制度的欠陥以外の何物でもない)。
(人を冤罪に陥れ得る)重大な誤りが正されることなく存続していく(少なくともその危険性が極めて高い)。
それはじつに恐ろしいことだと思う。


それはさておき。
まず、一冊目は、コリン・P. A. ジョーンズというアメリカ人弁護士が記した『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』だ(FC2のブログでも言及したことがあるのですが)。
陪審制という「国民の司法参加」の先行国であるアメリカの弁護士だけあって、陪審制の利点を実に説得的に書き記していると思う。
また、アメリカという国柄(及び弁護士という職業柄)が影響しているのかもしれないが、この図書は実にプラグマティックな視点に貫かれている。
僕自身はプラグマティストを自認しているわけですが、正直この図書を読んでしまうと未熟だと思わざるを得ないですね。


プラグマティックな視点からすれば、裁判員制度は決して市民のための制度ではない(その点で陪審制とは決定的に異なる)。
そうではなく、裁判員制度は裁判官や検察官・警察官といった権力者のための制度である、というのがジョーンズ氏の見立てである(し、それは実に説得力がある)。
念のため申し添えておくと、僕自身は「国民の司法参加」それ自体は肯定的に捉えている。
ただ、それは市民のための制度であるべきだし、権力監視という視点を内在させるべきである。
そして裁判員制度にはその視点がない以上(むしろ、権力を後押しする)、現時点では裁判員制度には反対せざるを得ない。



もう一冊は、裁判員制度に直接関係するわけではないが、心理学者の浜田寿美男『自白の心理学』だ。
しばしば言われることだが、日本の起訴における有罪率は99.9%と異常高値である(アメリカを含む先進諸国では一般に70%程度らしい)。
この異常に高い有罪率をもって、「日本の警察・検察の優秀さの現われだ!」とノー天気におっしゃる方もおられますが…(それを元検察官がおっしゃるとしたら、ノー天気を通り越して思考停止である)。
例えば、元検事さんのブログのコチラのエントリーに出てくる、

裁判官の立場に立って事件を考えて、裁判官が間違いなく有罪にすると認められる事件だけ起訴しているということです

なるセリフが象徴的です。
ごくかる〜くツッコミを入れますと。
「そら、他の国でも一緒でしょうが?他の国では検事さんは『こら裁判官は無罪出すやろな〜』と思いながら(半ば)ヤケクソに起訴するんかいな?」
あるいは
「そら裁判官と検察官のあうんの呼吸が成立している、ということであって、裁判の公正さとか証拠の厳密な吟味とは(したがって検察の捜査能力とは)全く何の関係もございません」
といったところか。
ツッコミどころは他にもあると思われますので、皆さんもお考えください。


ちょっと、脱線しました。
先の異常に高い有罪率は、元検事さんの願い(?)とは裏腹に、自白(という先進諸国ではとても証拠とは見做されない代物)に依存した形で裁判を維持せざるを得ない警察・検察の「無力さ」に拠っている(ただし「無力さ」とは、99.9%という異常な有罪率を前提とすれば、である)。
もちろん、警察・検察の問題だけではなく、虚偽の自白を見抜けない裁判官にも問題はある(この両者の問題が相まって日本の裁判制度の問題を形作っている)。
というのも、極めて不自然で、矛盾だらけの自白ですら、「任意性の問題はない」として、何の疑いもなく証拠として採用されてしまうのだ。


そして何より、この図書でもっとも僕が衝撃を受けたのは、冤罪事件が少なからず認められてきたにもかかわらず、冤罪をなくすための対策が、(政治、司法、行政のいずれにおいても)全くなされないまま放置されている、という事実である。
つまり、冤罪を生み出した構造的な問題が、全く手付かずのまま放置されているのだ(取調べの可視化くらいは今すぐにでも始められるにもかかわらず)。
そら、相も変わらず冤罪が生み出されるワケである(志布志事件、富山冤罪事件を持ち出すまでもなく)。


である以上、裁判員裁判においても「自白の問題」が裁判官から教示されることは決してない(むしろ、「拷問によらない自白に関しては任意性の問題はない(から証拠採用してよい)」との誤った教示を受ける可能性すらある)。
この図書は、一般人のみならず裁判官(や警察官や検察官)に広く信じられている神話、すなわち「無実の人は、(虚偽の)自白をしたら重罰を受けることがわかっているのだから、(虚偽の)自白などするはずがない」という神話を具体的事例を用いて説得的に批判していく。
この本を読んだ後では、被疑者として取り扱われた場合、多くの人はたとえ無実であっても(虚偽の)自白をしてしまう(せざるを得ない)ということが、実感できるだろう。


裁判員という、人一人を裁く立場に立つならば、そのことを十分に認識しておく必要があるだろう。
裁判員制度(及び現行裁判制度)の問題点については今後も繰り返し取り上げていきたい。