池田氏のブログ 池田氏の哲学的水準

最近チェックを怠っていたのでが、池田信夫氏のブログ思考する言語を読んでチト考えたことを述べてみる。

認識論的には、ようやく(半世紀以上おくれて)ヴィトゲンシュタインに追いついた程度だが、アメリカ人の哲学的水準なんてこんなものだろう。

まあ、こういうキャラを売りにしているんでしょうが(マジだとすれば酷すぎる)、それにしてもここまで自らを「愚か」に見せなくても、とは思うのだが…
いえね、ピンカーの認識論的遅れ(?)を指摘して、「アメリカ人の哲学的水準なんてこんなものだろう」と結論付けるこの論理性の欠如は一体どうなの?と。
何「ステレオタイプ的思考」を偉そうに晒しているの?と。
自らの論理性の欠如を晒しておいて、「ヴィトゲンシュタインに追いついた程度だが」と偉ぶって見せるのもねぇ…(この「上から目線」は何とかならんもんだろうか?)
アナタ(池田氏)の認識論はヴィトゲンシュタインからどの程度進んでいるのよ?と。
日本人の哲学的水準とやらは一体どんなもんなんだ?と。
その前にアナタ(池田氏)の哲学的水準は一体どんなもんなんだ?と。
クワインデイヴィドソンくらいの哲学的水準には達しているの?と。

生成文法新古典派経済学のような疑似科学がアカデミズムで主流だったのは、その数学的に整った体系が、大学や学界のヒエラルキー構造を維持する上で便利だったから

生成文法」や「新古典派経済学」が「疑似科学」であるか、あるいは「アカデミズムで主流」であるかは措いて(疑似科学批判系サイトは数あれど、「生成文法」や「新古典派経済学」を「疑似科学」として批判するサイトにお目にかかったことがないのは、僕が目にするサイトに偏りがあるせいか?)
僕には、「数学的に整った体系」と「大学や学会のヒエラルキー構造」の関係がさっぱり分からないのだが…
別に数学的に整った体系がなくても、ヒエラルキー構造を有する学会はいくらでもあると思うけど(というより、ヒエラルキー構造を維持したいのであれば、数学的に整っていない方が都合がよいと思うが)。
「数学的に整っているということは、『なんとなく正しそうに見える』程度のメリットは有する」くらいのことじゃないかなぁ?
僕的には、こういう「思い付いたことをとにかく断定的に書いちゃえ」的なスタンスが何とも、なのですが。

社会の要素は人間なのだから、今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう。

「遺伝的決定論」を批判している(ように見える)池田氏が、「社会の要素は人間なのだ」と記述しているのもなんとも皮肉な感じがします。*1
「社会現象は人間という要素に還元できる」というある種の還元主義(というドグマ)に陥っているようにも思われる。
それが、「今後の社会科学の基礎は脳科学や心理学だろう」という基礎付け主義的言説に表れている(「社会科学は脳科学や心理学に還元される」というわけだ)。

ヴィトゲンシュタイン(やクワインデイヴィドソン)的な反基礎付け主義(反還元主義=全体論)に立脚するなら、上記のような記述は決してできないと思われるが。
ヴィトゲンシュタインにすら追いついていない池田氏が随分偉そうな能書きを垂れてくださることだなぁ…

一発目のエントリーにしては少々挑発的過ぎるかなぁ?
Hatenaはやんちゃ系のブログにしようかな?

*1:遺伝子決定論とは、人間の性格や行動やさらには社会現象が遺伝子という要素に還元される、という考え方なので。